主の平安とお支えをお祈りしています。
日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年9月13日(日)10時30分
聖霊降臨節第 16主日礼拝
司式 牧師 願念 望
奏楽 浅井義子
前 奏
招 詞 詩編66編1b-4節
讃美歌 54-1節 〝聖霊みちびく神のことばは〟
交読詩編 詩編36編 6-10節
祈 祷
敬老祝福
讃美歌 443-1節 〝冠も天の座も〟
聖 書 ヨハネによる福音書8章31-36節(新約182頁)
説 教 『み言葉にとどまる』 牧師 願念 望
讃美歌 394-1節 〝信仰うけつぎ〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年9月13日(日) ヨハネによる福音書8:31-38
「み言葉にとどまる」 牧師 願念 望
この朝与えられています箇所は、「イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」(31)とはじまっています。しかし読み進みますと、「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。」(37)と、主イエスがその信じた者たちに言っておられるのです。とても理解に苦しむところです。
主イエスを信じた者たちと、主イエスが「わたしを殺そうとしている」と言われた人たちは、どう読んでも同じ人たちです。ヨハネ福音書は、主イエスを信じた人たちの信仰を問い直している。そればかりか、自分たちの信仰を問い直しているのです。私どももまた、主イエスのみ言葉に思いを深めていきたい。主イエス・キリストはどのように信仰を問い直しておられるのか。
改めて、主イエスのみ言葉に耳を傾けたい。「イエスは御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」(31-33)
「わたしの言葉にとどまるならば」主イエスは、わたしの言葉にとどまるように、と語りかけておられる。それによって、本当に「わたしの弟子である」と言われるのです。主イエスは御自分を信じて従ってくる者たちを、弟子と呼ばれた。信者とは言われなかった。主イエスの弟子というのは、そば近くにいた弟子たちだけではなくて、キリスト者すべてを指す言葉でもあります。私どもはキリストの弟子として歩み、弟子となり続けているでしょうか。
弟子となり続けていくために、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば」と言われた。主イエスの言葉にとどまるというのは、どういうことでしょうか。「言葉」というと、話し言葉とか、実際に口からでる言葉を思い浮かべます。確かに主イエスが「わたしの言葉」と言われたとき、その「言葉」は主イエス・キリストが実際に語りかけられた言葉、み言葉のことです。たとえば、「真理はあなたがたを自由にする」というみ言葉です。
しかし「わたしの言葉」という語りかけには、言い含められた意味合いがあります。それは主イエスが旧約聖書を背景にして語りかけておられることにあります。旧約聖書では「言葉」と訳されるのは、ダーバールですが、これは「言葉」と訳すほかに、もう一つ、「出来事」という意味合いがあります。最初に学んだときにとても不思議でしたが、神の言葉があるところに、必ず神の出来事が起こるからだと説明を受けて納得しました。創世記で「光あれ」と主なる神が言われ、そこに「光」が私どもに与えられた、それは神の言葉であり、神の出来事なのです。
ですから、主イエスが「わたしの言葉にとどまる」ようにと言われて、わたしの弟子となり続けるようにと信仰を問い直してくださったときに、それは主イエスのみ言葉にとどまることであり、主イエスの出来事、主イエスの救いにとどまることです。主イエスが私どもひとりひとりのために、命を献げられ、それほどに私どもを愛して神の愛の救いの出来事をなしとげてくださった。それはすべての人に向けられた神の愛の出来事でもあります。そこにとどまって生きるならば、キリストの弟子となり続けていくのです。
信仰という名のもとにある利己主義があります。主イエスから語りかけられているユダヤ人たちも、自分たちはアブラハムの子孫だという、ある意味で民族主義的な誇りに生きてそこから出ようとはしなかった、その枠の中で主イエスを信じていた。自分たちの築いてきた道に絶対的な自信を持っていた。ですからその道を問い直されたときに、主イエスを殺そうとしたのです。
主イエスは語りかけられました。「真理はあなたがたを自由にする。」この言葉は、最も有名な主イエスの言葉の一つです。国会図書館にも、「真理がわれらを自由にする」という言葉と、その横にヨハネ福音書のギリシャ語が壁に刻まれています。
主イエスが言われた「真理」、元々の言葉では「アレーテイア」ですが、通常は「真理」と訳されます。主イエスのみ言葉の真理が私どもを自由にしていくのです。信仰を抱いたつもりで、主なる神以外のもの、ふさわしくないものにしばられていく私どもを、主イエスが解き放ち、そのみ言葉、救いの出来事にとらえてくださる。そのようにして御言葉の真理にとどまらせてくださるのです。
また「真理」アレーテイアは、「真実」とも訳されます。それはキリストの真実です。「キリストの真実はあなたたちを自由にする」と訳してもいいと思っています。主イエス・キリストは、神の真実そのものですから、真理であり真実である主イエスが、わたしがあなたたちを自由にする、と約束されたのです。
私どもがキリストの弟子となり続けていく歩みに、神からの働きかけがあっての自由であります。キリストの弟子としての自由です。私どもは弟子としてキリストを愛し、その言葉とみわざを受け継いでいく中で、何より神の愛を生きて世に伝えていく。そのようにしてキリストの弟子となり続けていく道が主イエスによってすでに与えられているのです。主イエスの備えられた道を歩む光栄を、教会に与えてくださったことを信じて、主イエスのみ言葉に問い直されつつ生きていきたい。