2021年6月6日(日)礼拝式次第と説教 「その花の名を知らず」

2021年6月6日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 6月 6日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    詩編11編7節
讃 美 歌   360-3節 〝人の目には〟
交読詩編     詩編92編13-16節
祈 祷
讃 美 歌   361-2節 〝この世はみな〟
聖 書    マタイによる福音書6章28-30節(新約10頁)
説 教    『その花の名を知らず』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   444-2節 〝気づかせてください〟
信仰告白    〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

説教 2021年6月6日(日)
「その花の名を知らず」   牧師 上林 順一郎
マタイによる福音書6章28-30節

 

1、野の花とは?

6月に入りました。花が美しい季節です。日本の教会では6月の第二日曜日を「花の日礼拝」、最近では「子どもの日礼拝」として守っている教会が多いようです。
さて、今日の聖書の箇所でイエスは「野の花を見よ 」と言われます。昔の文語訳聖書では「野のユリを見よ」でした。
聖書学者たちはイエスの言われた「野のユリは、本当はユリの花ではない」と主張していますので、いまは「野のユリ」を「野の花」と訳すようになったのです。「では、その花の名前は何か」というと、色々議論があるのですが、専門家は「アザミ」とか「アネモネ」と主張しています。花の名前をほとんど知らないわたしですが、「野のユリを見よ」と言われれば真っ白なユリの花を思い浮かべることができるのですが、「野のアザミを見よ」とか「野のアネモネを見よ」と言われても、どんな花か知りませんので、具体的にイメージすることができないのは残念です。

 

2、無為にしてなさざるなき

ところでこの『空の鳥、野の花』で注目すべきことは、「空の鳥は種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない」とあります。「種をまく、刈り入れをする、倉に納める」ことは農場で働く労働者、具体的には小作人や農奴たちの仕事を示しています。一方、「野の花は働きもせず、紡ぎもしない」とあります。これは女性の仕事を意味しています。当時の女性は水汲みや洗濯、食事の準備などが仕事で、その合間には綿花を集め、織物を紡ぐことを労働としていました。男も女もその労働は労苦の多い、厳しい仕事であり、しかも生活は貧しく困窮していました。それに対して空の鳥は「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず」、野の花は「働きもせず、紡ぎもしない」と、いずれも否定形が使われています。ある聖書学者は「空の鳥、野の花」の「無為の姿」に注目しています。人間のように汗水流して働き、日々労苦をしないでも、ありのままで神に守られ、生かされている、と語られているのです。「ましてやあなた方は」とイエスは語ります。イエスは神が造られたすべての被造物が神の恵みと愛の内に生かされ、その存在をゆるされていることを示しておられるのです。だから「明日のことを思い悩むな」と!無為こそ、信頼という究極の行為なのです。

キェルケゴールは書いています「汝らのすべての思い煩いを神に投げよ、見よ、空の鳥と野の花はそれを絶対的に行っている。人間もまたこれを行う深き喜びを学ぶべきである」

 

 

3、白い追憶へ

新型コロナの感染が終息しない中、いつまでこんな不自由で閉塞した生活を続けなければならないのか、ワクチンの接種をしてもそれで事態が解決するのか、生活の行く方はどうなるのか、子供たちの将来はどうなるのか、不安や恐れは次々と起こってきます。政治は信頼を失い、経済は不況のさなかにあり、世界は次々と新たな混乱と対立を続けています。「明日のことを悩むな」と言われても悩みは次々と起こってくるのが現実です。そんな中でこそ、いま私たちは「野の花を見よ」とのイエスの言葉を聞かなければなりません。

「おまえを大切に摘んでいく人がいた。臭いと言われ、嫌われ者のおまえだったけれど、道の隅で、歩く人の足許を見上げ、ひっそりと生きていた。いつかお前を必要とする人が、現れるのを待っていたかのように。お前の花、白い十字架に似ていた」星野富弘さんの「どくだみ」と題する詩です。星野さんは「かぎりなくやさしい花々」という本の中でこう書いています。「不自由な人を見て、すぐに不幸ときめつけてしまったのは、わたしの心のまずしさでした。だから、ドクダミを見たとき私は思いました。自分の貧しい心で、花を見てはいけない・・・と。その時から、ドクダミが美しく見えるようになったのです。ミミズのようだと思っていた赤い茎は,銅の針金のようにたくましく、いやだったニオイは、ほのかな香料のようでした。上を向いて、四つに開いている真っ白い花は、聖なる十字架のようでした」

ドクダミの花言葉は「白い追憶」だそうです。今日はイエスの十字架を思い起こしながら、庭の白い十字架に見送られて帰りましょう。「思い悩みをすべて神様にゆだねている名も知らない花たちが、すべての思い悩みを神様にゆだねて、一生懸命咲いているように、わたしたちもそれぞれ置かれたところで、名もなき花となって咲きましょう」イエス・キリストの十字架を証するために。

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