新型コロナウイルスの感染が急激に拡大し、東京都では緊急事態宣言が延長されました。
こうした事態に対して感染の危険を避けるために9月26日(日)までの主日礼拝を引き続き在宅礼拝といたします。オンライン配信や説教要旨などを用いてそれぞれの場所で礼拝をお献げください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
10月以降については決まり次第お知らせいたします。
みなさまのご健康が守られるようにお祈りいたします。
2021 年 9月 26日(日)
司式 役員
奏楽 河野 美和子
前 奏
招 詞 イザヤ書46章3-4節
讃 美 歌 205-5節 〝今日は光が〟
交読詩編 詩編46編1-8節
祈 祷
讃 美 歌 434-1節 〝主よ、みもとに〟
聖 書 ゼカリア書8章3-5節(旧約1487頁)
説 教 『老いたる者が満ち溢れ』 牧師 上林 順一郎
讃 美 歌 510-4節 〝主よ、終わりまで〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年9月26日(日)
「老いたる者が満ち溢れ」 牧師 上林 順一郎
ゼカリア書8章3-5節
103歳まで医者として働いていた日野原重明さんは「老いを創める」という本と書いていますが、その中で「老人になるタイプ」を三つ上げています。第一は「抵抗型」です。いつまでも自分は若いと言い張って、無理に若ぶって、老いの現実を受け入れようとしないタイプ。二番目のタイプは「不平不満型」です。思うようにならないことをいつも気にし、しかもそれを誰かのせいにして他人を非難し、いつもブツブツと不平不満、文句を言うタイプ。三番目は「自己嫌悪型」です。自分のミスや失敗をいつまでもクヨクヨと気にし、その責任を自分のせいにして気に病み、気分が塞ぎ込み、次第にうつ的になるタイプです。一番多いのは二番目の「不平不満型」だそうです。
今日の聖書にはゼカリアという預言者が登場します。紀元前6世紀のころで、当時、イスラエルはバビロニア帝国によって侵略され、首都エルサレムの町は瓦礫となり、彼らの信仰の対象であった神殿も破壊されつくされてしまいます。さらに、イスラエルの多くの人々はバビロニアへと連行され、奴隷として働かされることになります。故国を失い、信仰の中心であった神殿も失い、ユダヤ人たちは異邦の地でも希望を失うことはありませんでした。その力となったのは創造主なる神への信仰であり、神から与えられた律法を守ることによってでした。
約60年間の捕囚の間に、新しく興ったペルシャによって彼らは解放され、故国エルサレムへと帰還することが許されます。しかし、故国エルサレムの状態は回復が不可能なほどの荒れようであり、破壊しつくされた町や神殿は再建の見込みもないような状態でした。しかも帰還した人々は、いわば外国からの引揚者であり、資産も所有物も持たないまずしい状態でありました。そのようなときにエゼキエルはこう告げます。「イスラエルの家よ。あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが、いまやわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。恐れてはならない、勇気を出すがよい」(8:13)そのしるしとして、彼は「エルサレムの広場には、老爺、老婆が座するようになる。それぞれ、長寿ゆえに杖を手にして」と預言したのです。
■「おんぶにだっこ」で
日野原さんは第四のタイプを勧めます。「しなやか型」です。平穏に老境に入り、精神的な葛藤やストレスがなく、自分を肯定して受け入れ、他人を責めず、過去を悔やまず、現在を無駄にせず、日ごろの活動と人間関係に心から満足する。これができれば世話はないのですが、できないから「いやな老人」になってしまうのです。
わたし個人は次のタイプをお勧めします。今朝の招きの言葉で読んでいただきましたイザヤ書、「聖書協会共同訳」という一番新しい訳では「母の胎を出た時から、私に担われている者たちよ。腹を出た時から、わたしに運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。あなた方が白髪になるまで、私は背負う。私が創った。私が担おう。私が背負って、救い出そう」「私が」という言葉が繰り返されています。
神様は私たちが生まれた時から私たちを担い(抱っこし)、運び(おんぶ)し、白髪になるまで今も背負ってくださっているのです。「生老病死」、生まれた苦しみも、「老いや病いの時」の苦しみも、「死」の不安との苦しみの時も、神様はわたしたちをご自分の胸に抱っこし、ご自分の背中に背負いながら一緒に生きてくださったのです。わたしはこれを「おんぶに、だっこ型」と呼んでいるのです。
■教会は新しくなる
コロナの感染により教会の礼拝も集会もままならない日々が続きます。コロナ後、教会は昔のように回復できるのかと心配する人々もいます。しかし、大丈夫です。いずれは再開する教会の礼拝堂に老爺、老婆が再び座するようになる時、教会は再び生き始めます。
もっとも問題が一つあります。ゼカリアは続いてこう言います。「都の広場にはわらべとおとめにあふれ、かれらは広場で笑いさざめく」教会の広場には「わらべとおとめとがあふれていません」もし、彼らが満ち溢れるならば、ゼカリアの預言が成就するでしょう。「他の町に行って言おう。『さあ、共に行って、主の恵みを求め、万軍の主を求めよう』『私も喜んで行きます』多くの民、強い国々の民も来て、エルサレムの万軍の神を求め、主の恵みを求める」
教会の広場には、老若男女の人々であふれる日が来るでしょう。他の町に出て行って言いましょう。「さあ、共に行って、主の恵みを求めましょう」、と。その時、教会は新しく復活するでしょう。