救い主の祝福が輝く

2013年12月22日

聖書:イザヤ9:1-5  ルカ2:1-7

国分寺教会 牧師 願念望

2013年12月22日

みなさんはどんな一年を過ごしてこられたでしょうか。
一言ではとても言い表せないのではないでしょうか。
おそらくはすべてがうまくいったという人はいないのではないでしょうか。
生きていくことの労苦を、誰しもが何かしら負いながら、ここに至っているはずです。

生きることが旅をすることにたとえられることがあります。私どもはそれぞれ、人生の旅路を歩んでいます。
救い主の誕生を教える聖書の言葉も、マリヤとヨセフが旅をしていることが記されています。貧しい彼らが、何 日もかかる旅をすることは大変な出費です。若いふたりのために、まわりの者たちが乏しい中からもわずかずつ出してくれて送りだしてくれたかもしれません。 ナザレの小さな村から出ていくときに、貴重なろばを貸してくれる人がいたかもしれません。そうでなければすでに救い主である赤ちゃんが産まれそうなマリヤ には、歩いて旅をすることは無理だったと思われます。やっとついたベツレヘムには、マリヤたちのために場所が用意されていませんでした。お金持ちはお金に ものをいわせて贅沢に滞在したでしょう。しかしマリヤ達にはぎりぎりのものしかありませんでした。身重の女性を見て、さけた宿屋の主人もいたかもしれませ ん。
救い主は、用意された客間ではなく、うまやの中で、私どもの誰よりも低くなってお生まれくださった。そして、飼い葉桶の中に大切に寝かせられました。不思議なお生まれですが、そこに神の栄光が輝いていました。
天使によって伝えられた神様からのクリスマスのメッセージは、神の独り子である、神の御子がお生まれになったことが、すべての人の救いとなるということです。そのことを信じて、やがて世界中でクリスマスがお祝いされるようになりました。

今日は22日で冬至ですから、一年で最も夜が長い時期です。クリスマスの祝いの祭りがはじまった頃は、冬至の祭りとクリスマスの祝いが重なって守られるようになったと言われます。
昔から教会では、これからだんだんと、夜が短くなって春を待つ思いをあたためていくようになるときに、生き ていくことにおいても、今経験しているこの厳しさが段々と和らいでいくことの希望を持てるように祈っていました。神を信じて希望を抱くことができるように 祈っていったのです。
クリスマスを祝ってきた信仰者達は、夜が長い冬の時期を与える神がまた、春の到来を約束しておられるように、今直面していることを必ず乗り越えさせてくださると信じていったのです。しかし、忍耐して春まで待てるときはいいのですが、そんな余裕を失っていることもあります。
むしろ、クリスマスの希望は、春というべきときが来ないと与えられないものではなくて、今ここに与えられる希望です。日の光が見えない闇に輝く光が私どもに与えられる、それがクリスマスの希望です。

講壇のろうそくに4本すべて光が灯っています。このろうそくの光は、神が授けてくださる光をあらわしています。神から、心に灯火を灯してもらわないと、自分では希望をもって明るくすることができないことがあるからです。神様から授けていただく光があるということです。
神様から授けていただく光は、まさに、主イエスをあらわしています。
主イエス・キリストは、わたしたちの闇を照らす光としてお生まれくださったのです。

当時の人々は、救い主の誕生を待っていました。神が遣わしてくださる、歴史上ただひとりのお方を待っていま した。人々は、救い主が、王様が住んでいるような立派な家に生まれることを想像していました。そのほうが、救い主らしいと考えたでしょう。しかし、そのよ うなこの世の豊かさがもたらす光は、神の光ではないし、本当の意味で人を救うことはないのです。
本当の意味でということは、聖書は、罪の闇に救いの光をもたらすことを約束しているからです。誰も照らすことができない心の闇、罪の闇に光を授けて救うために、主イエスは来られたのです。
そのために、救い主は、実に不思議なことですが、うまやに生まれて、飼い葉桶の中にねむられたのです。そこは、神の御子、主イエスを宿すには、まことにふさわしくないところです。しかし、あえて神はそのようにされたのです。
それは、およそ、飼い葉桶以上に、神の光である救い主に来ていただくには、ふさわしくない私どもと、共に生 きてくださるためです。私どもに罪の赦しの救いの光を授けるために、主は場所が用意されていない中お生まれになり、牛やろばのえさ箱のなかに寝てくださっ た。そこに、神の栄光の光が輝いていました。罪深い私どもを赦して受け入れ、共に生きてくださることが示されたからです。
神は、私どもと共に、喜んで生きてくださる。私どもの中にも、喜んで共に生きてくださり、私どもの生きていくことの労苦を共に喜び、共に担ってくださるのです。

このクリスマス礼拝で洗礼を授けられた方々を、心から祝福いたします。主イエスを信じてこれからずーっと生きていくことは、洗礼が入学にたとえられるなら、教会生活は卒業のない歩みです。生涯、主イエスが、おひとりおひとりの人生の旅路の労苦を御自分のものと していきてくださるのです。

神は、私どもが、へりくだって、神をお迎えすることを待っておられる。主イエスが、神様であるからこそ、私どものところにも、憐れみをもってくることができることを、信じていくように招いておられるのです。主イエスは、私どもと共に生きて、導いてくださるのです。

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