詩編4:2−9 エフェソ3:1−6
2015年4月5日(日)
国分寺教会 牧師 願念望
イースターは、主イエスの復活を祝う礼拝の時であります。春の芽吹きの時にイースターを祝います。
種を蒔いて芽を出していく、そのような種まきにたとえるなら、主イエスは、一粒の種である御自身の命を蒔い て死んでくださり、復活の命を芽生えさせてくださったのです。主イエスただおひとりが、ご自分の命の種を蒔いて、死からよみがえりの命を芽生えさせてくだ さった。私どもを恵みによって救い、主イエスの復活の命にあずからせるためです。
エフェソ書を書いたとされるパウロもまた、主イエスの復活の命にあずかった者です。主イエスの救いを受けて、恵みによって生かされていきました。
「キリスト・イエスの囚人」(1)とありますが、信仰のゆえにパウロは正しく福音を語ったのですが、迫害を 受けて囚われの身となりました。しかしそのような現実に、主を信じて身をゆだね、自らを主イエスに倣って一粒の種として蒔いたときに、その囚われの身の現 実から、このエフェソ書を生みだしたと言われるのです。
パウロがどこを見ていたかはとても大事なことです。信仰生活を生きていく上での信仰の目線、どこを見つめて生きているかはとても大切なことです。
視線の大切さは、たとえば体の動きとも関わってきます。
青森にいた頃、CS(教会学校)で出かけて、子ども達とスキーを習いました。習い始めの私は、足もとが気に なってよく下を見て確かめながら滑っていた。すると、「願念さーん、足もとを見ないで、前を見てください」と注意されました。足もとを見ると、頭が下がっ て自然に腰が引けてうまくスキー板に乗れないからです。自分の足もとを見ないで前を見てすべるとドキドキして、下ばかり見ていた自分には、ほとんど上を見 るぐらいの感覚でした。不思議にその方が安定しました。
信仰生活も、自分の生きているその足もとは大切です。しかし、もっと大切なのは、自分を導いてくださる主を信じて見上げることです。そのことは、この箇所でパウロが何よりも主イエスの恵みに生きるように伝えたことでもあります。
神の恵みに生かされている私どもですが、そのことを知って感謝することはとても信仰生活の足もとを安定させ るように思われます。感謝すべきことに生かされていることは、実際に感謝することとは、必ずしも同じではありません。感謝すべきことに生かされていても、 感謝していないことがあるからです。
恵みもまた同じようなことがあるかもしれません。
恵みに生かされているのが私どもです。しかし、そのことを信じて受けとめて、感謝しながら恵みに生きることはさらに大切なことです。そこに、感謝と喜びが生まれるからです。恵みに生きることの感謝と喜びは、魂の泉のように私どもの渇きを癒し、潤すのです。
神が私どもを心にかけてくださっている、そのことは、元々そのような神の愛を受けるに価しないにもかかわら ず、神は思いにかけてくださっているということです。十字架に命の種を蒔いても惜しくはないと私どもに、かけがえのなさを見出してくださった。そのよう な、元々受けるに価しないにもかかわらず与えてくださるのが恵みです。さらには、主なる神が与えてくださらなければ自分では獲得できないものが恵みでもあ ります。
そのようなキリストにある恵みを与えようと、主は「計画」してくださったのです。「神に秘められた計画」と あります。それは、主イエスの十字の死と復活の救いによる計画、であります。私どもにキリストにある恵みに生かして、私どもが恵みを信じて恵みに生きる計 画でもあります。「計画」という言葉は、元々「奥義」という意味です。
先ほど、体の全体で、目線が大切と言いました。自分の足もとばかりを見ないように、と言いました。信仰生活でどこを見ているかが大切ということです。足もとのこと、自分の弱さや罪という足もとばかりを見ていても、主を見上げなければ喜びを失ってしまいます。
その意味では足もとよりも、神の計画を信じて、神を信じて見上げていくのです。神の計画があることを信じて 祈っていくことです。その計画は「約束されたもの」に向かっているのです。「約束されたもの」は、救いの完成ですが、そこへと向かって私どもは、キリスト の救いの命、復活の命に生かされながら、それぞれに与えられた現実を生きていくのです。
主イエスという命の種が、信仰をもって蒔かれる時に、その種は必ず芽吹いて、救いの計画の実りを結んでいくのです。
キリストの救いの命は、そこに神の愛があらわされた救いの命であります。もっとも恵みに満ちた命でありま す。神の救い、神の愛による赦しそのものの命であります。信仰をもって主イエスを見上げて生きていく時に、むしろ私どもが生きていく上での足もとの必要を 満たし、魂の渇きを潤してくださるのです。主イエスのよみがえりの命は、もっとも確かで、滅びない命であります。主イエス・キリストこそ、私どもを生かす 命そのものであります。