日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝 2021 年 6月 27日(日)
司式 役員
奏楽 三宅 さやか
前 奏
招 詞 マタイによる福音書6章33-34節
讃 美 歌 495-1節 〝しずけき祈りの〟
交読詩 詩編133編1-3節
祈 祷
讃 美 歌 500-3節 〝神よ、みまえに〟
聖 書 使徒言行録4章32-37節(新約220頁)
説 教 『いのちの糧を分かち合う』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 393-4節 〝こころを一つに〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
説教 2021年6月27日(日)
「いのちの糧を分かち合う」 伝道師 佐藤 倫子
使徒言行録4章32-37節
■弟子たちの群れ
エルサレムにとどまっていた弟子たちの上に聖霊が降り、彼らは大きな力を得ました。それは、どんな苦しい状況になっても、イエス・キリストを述べ伝えることができる、そのような大きな力です。聖霊の力を受けて弟子たちは、新しい信者を獲得した、と聖書は記しています。ペンテコステの日にペトロが説教をし、その言葉にしたがい、洗礼を受けた人の数は3000人ほどであった、とさえあります。
今や、弟子たちを中心とした、イエス・キリストを信じる人の群れは、ごく少数の人々にとどまらなくなったのです。十字架の死を目の当たりにして、その多くが散らされてしまった。そんなときに、ペトロの力強い説教が、再び彼らの眠っていた心を、信じる心を揺り動かしたのでしょう。新しく弟子となった人々が、また新しくイエス・キリストを述べ伝えるようになり、さらに信じる者の輪が広がっていきました。
今日の聖書の箇所には初代教会に貧しい人が一人もいなかったとあります。お金持ちばかりが信者になっていたのでしょうか。
聖書には、毎日神に祈り、兄弟姉妹が互いに支え合い、その信仰がよりいっそう深まるように暮らしている信仰者の姿があります。しかし、食べ物は無料で手に入るわけではありません。彼らは金銭的な面でも、互いに支え合っていました。もっている人が、もっていない人のために財産を売り払い、そしてそのお金で皆が生活していました。初代教会は、互いに分かち合う共同体だったのです。
■分かち合うその姿
この財産の共有は、もっている人がその財産の一部をわたし、それを共同体のために用いる、といったレベルにとどまりませんでした。彼らはその財産の、もっているもののすべてを共同体の共有としたのです。家も、土地も、財産もすべてが共有とされました。
人間は富を追い求める弱さを持っているものです。いったん富に囚われてしまうと、神よりも富が最優先されてしまいます。しかし、初代教会はそうはならなかったのです。これは一つの奇跡ともいえる状況です。
どうして彼らはその財産のすべてを、共同体のために差し出したのでしょう。それは、彼ら彼女らが信じるイエス・キリストが分かち合う方であり、そのようなイエスの姿をしっかりと心に留めていたからでした。
分かち合うイエスの姿のエピソードとして、恐らく最も有名なのは五千人の給食の話です。五千人を前にして、手元にあるのは5つのパンと2匹の魚。しかしそれでもすべての人々と分かち合おうとするイエスはその手でパンを裂いていかれます。すると不思議なことに人々は満たされていきました。自分の手にあるものを、目の前にいる人々と分かち合うこと。これは他ならぬイエス御自身が生涯を通して実行されたことです。イエスの姿は、分かち合うことの豊かさを人々に伝えているのです。
初代教会はそのようなイエスの教えを実践していました。自分たちの群れのうちに困っている者があったなら、それを助けるのは当然のことである、と考えていたでしょう。その群れのうちには、土地や財産をもった人たち以上に、社会でつまはじきにされた人、病気の人、やもめなど、社会的に弱い立場におかれている人々が多くありましたから、彼らはその財産を分かち合っていたのです。
■いのちの糧を分かち合う
すべての人と財産を分かち合う。そう考えると私には無理だ、と思われる方もおられると思います。しかし、今日の交読詩編の133編にはこうあります。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)
「共に座る」ことだって教会の持つ豊かさの1つです。特にコロナ禍になって、改めて共に礼拝を献げることの出来る恵みに気付かされた私たちです。それは今、この瞬間も、現実に私たちを包んでいます。
いのちの糧を分かち合う。それは、物質的なことに限定されてはいません。日常の苦しみや悲しさ、孤独を経験した時、そこに共感してくれる仲間がいること、同じ苦しみを抱える人に出会うことができるということ。そして何より、イエスがどんな時にも私達の隣にいてくださるということ。苦しみを分かち合い、喜びに変えていく。それは、イエスの姿であり、初代教会から脈々と受け継がれている教会の姿です。神が私たちを結び合わせ、そのような群れとしてくださると信じて、ここから始まる新しい1週間を共に歩み出しましょう。