10月より、教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)は本日より再開となります。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
神学校日礼拝
2021 年 10月 10日(日)
司式 役員
奏楽 浅井 義子
前 奏
招 詞 詩編68編20-21節
讃 美 歌 157-2節 〝いざ語れ、主の民よ〟
交読詩編 詩編86編1-4節
祈 祷
讃 美 歌 274-4節 〝救い主 キリストよ〟
聖 書 ヨハネによる福音書3章1-15節(新約167頁)
説 教 『新しく生まれる』 神学生 蓮沼 明
讃 美 歌 475-2節 〝あめなるよろこび〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年10月10日(日)
「新しく生まれる」 神学生 蓮沼 明
ヨハネによる福音書3章1-15節
クリスチャンは常識的なのか?
神学生になった私ですが未だに分からないことがあります。それは「クリスチャンは常識的なのか?」という疑問です。
ニコデモは常識がないのか?
ニコデモは早くからイエス様を特別な存在であることを理解しています。さらに、律法に忠実なファリサイ派であり、ユダヤ人の議員でもある当時であっても「常識」があり、いやむしろ「良識者」とも言える人物でありましょう。そのニコデモは、イエス様が特別であることを認めた上で、謙虚に質問をされるのです。それに対して、イエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」そう、ニコデモに対してきっぱりと言うのです。
それを受けて、ニコデモは「常識的」に答えます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
ニコデモは、当時であれば「常識的」に答えているでしょう。決して、見当違いな返答をしているとはニコデモ自身は思っていないでしょう。
「クリスチャンは常識的なのか」という問いを続けます。聖書は、独特な言葉遣いをします。そして、さらに独自の考え方を持っています。
それが、私が抱く「世の常識」と「キリスト教の常識」の違いに思います。聖書は、あるいは教会で説教されていることは、「世の常識」からすると少し現実離れしたように聞こえるのです。三位一体とは何か?イエス・キリストの十字架とは何か?聖餐式とは何か?そもそも復活などあり得るのだろうか?そんな疑問を抱きながら説教を聞いていたことがあります。
世の常識とキリスト教の常識
「世の常識」と「キリスト教の常識」が違うことが分かりました。
「神が人となり、苦しみを受けて私たちの罪を贖い死んで下さり、死に勝利されて復活する。それが私たちの救いである。」
これが「キリスト教の常識」だと思います。「世の常識」ではなかなか理解できないかもしれません。しかし、キリスト教の価値観を知っている者は、それほど少なくないのではないかと思います。なぜなら「教会学校」の存在やミッションスクールの存在があるからです。そして、海外の文学や絵画や劇などに触れて、キリスト教の価値観を培っていく者もまたあるかもしれません。
どうやら「クリスチャンの考え方は常識的」なのだと言えるでしょう。私たちが、ナイフやフォークの使い方を習っていくように誰もが信仰の最低限は知っていないといけないと思います。つまり、キリスト教の「考え方」は「常識」であり、むしろ、それを知らなかった私というのが「非常識」であったのです。
ニコデモの無理解と常識の壁
ニコデモは、ヨハネによる福音書で不名誉な役回りをしてしまいました。「新たに生まれなければならない」という詩的な表現によって覆われてしまった本来の意味を知らなかったのです。クリスチャンになると今日の聖書箇所でニコデモは「無理解だな」と思ってしまうことがあります。しかし、私たちはキリストの十字架と復活の後に生きている者です。そのような「常識」を持って聖書を読んでいます。
「キリスト教の常識」だからといってニコデモの無理解を責めてはいけません。私たちだって常に神の愛に対しても隣人の愛にしても無理解であるからです。また、私たちが今を生きている中で「常識」として片付けてしまう事柄の中に本来は私を通してキリストと出会うべき者がいたかもしれないからです。目の前に困った人がいても「常識の壁」の前で救いの手が差し出せない時があります。
しかし、イエス・キリストはその「常識の壁」を超えて病人や罪人とされていた人々と触れ合いをもったのです。手は差し伸べられなかったかもしれないが、私たちクリスチャンは「世の光」として「常識の壁」からもれてしまう者のために丘の上で輝いていなければなりません。
私たちは罪を犯してしまう者として日々、悔い改めて私たちもまた「新たに生まれなければなりません」。