2021年9月12日(日)礼拝式次第と説教 「隣人を愛す」

2021年9月12日

 

新型コロナウイルスの感染が急激に拡大し、東京都では緊急事態宣言が延長されました。

こうした事態に対して感染の危険を避けるために9月26日(日)までの主日礼拝を引き続き在宅礼拝といたします。オンライン配信や説教要旨などを用いてそれぞれの場所で礼拝をお献げください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られるようにお祈りいたします。

 

敬老祝福礼拝    2021 年 9月 12日(日)
司式 役員
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞     イザヤ書46編3-4節
讃 美 歌   210-4節 〝来る朝ごとに〟
交読詩編     詩編15編
祈 祷
敬老祝福
讃 美 歌   54-1節 〝聖霊みちびく神のことばは〟
聖 書    ヤコブの手紙2章8-13節(新約423頁)
説 教    『隣人を愛す』  伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   481-1節 〝救いの主イェスの〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2021年9月12日(日)
「隣人を愛す」    伝道師 佐藤 倫子
ヤコブの手紙2章8-13節

 

■賞賛?皮肉?

誰かから手紙をもらい、その中で「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです」(ヤコブ2:8)とあったらどうでしょう。面と向かって口で言われるのではなく、また、電話などの音声でもなく、文字でこの言葉を読むとき、私たちはさまざまな思いを浮かべますが、大きく分ければ、次の2つのようなものになるのではないでしょうか。

一つめは、褒められて嬉しいということです。私たちの普段の行動が認められ、そのことを素直に喜ぶ気持ち。そして一方、その全く反対の言葉、大変な皮肉に読むこともできます。普段から全くできていないことを見透かされているような、そのような気になります。

賞賛と皮肉。私がこの言葉を与えられたと考えたとき、確実に後者の思いを抱くと予想できます。同じように考えられる方も多いのではないでしょうか。実際、これまでの歩みを振り返るとき、神の教えをそのまま実行できた時より、むしろ、できなかったことの方が思い起こされるものです。そして、私たちはそれが事実であることをよく知っています。だからこそ、この言葉は皮肉として私たちに受け止められています。

 

■勝手な解釈

「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、聖書の中で重要な掟であり、2000年前の初代教会においても、重要な位置を占めていました。パウロの手紙には、この教えが何度も出てきます。イエス自身が教えられたこの言葉を、弟子たちはしっかりと受け継いで、基本的な姿勢として、この教えを実行していたのです。
しかし、イエスを失ってからしばらく経つと、その言葉を忘れる者が現れ始めます。また、イエスを信じる群れも段々と大きくなり、イエスのことを直接知らないような人たちも、多く存在するようになってきます。イエスの教えが広まるにつれて、次第にその言葉は薄められ、歪められ、それぞれに都合の良いように聞かれるようになってしまいました。

これは今の私たちにとっても同じことでしょう。イエスが地上に現れたときから約2000年。誰一人、直接にイエス自身の言葉を聞いた者はなく、聖書の言葉だけが私たちの頼るべき杖となっています。そして、その言葉を厳格に解釈する人もあれば、とても都合よく解釈する人もあるでしょう。それと同じことが、2000年前にもありました。

今日の聖書箇所の少し前には、教会にやってきたお金持ちの人と貧しい人とで座る場所が分けられている、そのような記述があります。おそらく、当時の教会では、身なりが立派な人が優遇され、そうでない人が冷遇される、そのようなことが行われていたのでしょう。
そのように分け隔てしている人々に向けて語られたのが、先ほどの言葉なのです。やはりこの言葉は、実際にはできていない教えを、さも実践しているかのように勘違いしている人々に向けて、明らかに皮肉をこめて語られている、と受け止めざるをえません。

 

■隣人を愛する

私たちもつい、自分の周囲にいる人々に対して、この人は隣人で、あの人はそうではない、と考えてしまうことがあります。そう考えることによって、隣人を愛するということの実践ができていない自分を正当化してしまいます。

本来、「隣人を自分のように愛する」ということは、何も特別なことではありません。まず、自分自身のことを見つめる。神の前に恥ずかしい人間でありたくないあまり、その弱さを覆い隠そうとしている自分を見つめます。そして、その自分の破れを認識したとき、その破れをもった自分を、神が受け入れてくださっている、赦してくださっているという事実を知ることができます。そして素直に、そのことに感謝し、喜びます。その感謝、喜びを知った人は、自分以外の人もまた破れをもっていること、そして、その破れを抱えたまま、神に受け入れられているという現実を認識することができるでしょう。

神から愛されている自分と、神から愛されている他者。そこには何の区別もないはずです。神の目から見れば、私と、私以外の人との間には何の「分け隔て」もありません。私たちはその「分け隔て」をしない神に受け入れていただいています。同じことを、ただ隣にいる人にすればよいだけのことなのです。自分と同じように、相手にも破れがあることを理解すること。その人の破れを受け入れ、赦すこと。そして、一緒に神に向かって歩んでいくということ。それが隣人を愛する第一歩であり、また、すべてなのです。

 

 

 

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