2020年11月1日(日)礼拝式次第と説教「いつくしみに生きる」

2020年11月1日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2020 年 11 月 1 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    イザヤ書46章3b-4節
讃 美 歌   17-1節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編   詩編67編 1-4 節
祈 祷
讃 美 歌   493-1節 〝いつくしみ深い〟
聖 書    詩編16章7-11節(旧約846頁)
説 教    『いつくしみに生きる』 牧師 願念 望
讃 美 歌   504-1節 〝主よ、み手もて〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
追悼の祈り
献 金
主の祈り
頌栄     27 〝父・子・聖霊の〟
祝 福
後 奏

説教 2020年11月1日(日)詩編16:7-11
「いつくしみに生きる」              牧師 願念 望

毎年、11月の第一主日の礼拝は、召天者記念礼拝として献げてきました。この年も、主なる神に支えられて召天者記念礼拝を共に献げることができますことを、心から感謝いたします。
今年度は改めて言うまでもないことですが、新型コロナウイルス感染症のために厳しい状況が続いています。本日も、多くの方が、配信によって共に礼拝を献げておられます。このようなときであるからこそ、深い主の慰めがあるようにと、心から信じてご一緒に主の御言葉に思いを深めてまいりたい。

古くからキリスト教会で言い慣わされた言葉に、「メメントモリ」という言葉があります。「メメントモリ」、直訳しますと自らの死を覚えよ、という意味です。修道院で語り継がれたようですが、あなたの生涯に限りがあることを心にとめて日々に祈りをもって信仰生活を生き抜くようにという語りかけとして聞こえてきます。
「メメントモリ」と共にコインの裏表のように「メメントドミニ」という語りかけもあります。「メメントドミニ」、これは自らの主を覚えよ、という意味です。あなたに命を授け、生かし支えてくださっている主なる神を信じて生きていくようにということです。

修道院で最もよく読まれてきた聖書の言葉に、詩編があります。
有名なある神学者は、詩編のことを「嘆きとたたえ」と呼びましたが、人が生きていく上での悩みや嘆きを、神様に向かって言い表している、そして、その誰にもぶつけられないような思いを主に言い表す中で、主なる神と出会い、その嘆きをたたえ、神様への賛美、感謝に変えられている、それが詩編だというのです。

詩篇16編の7節から朗読しましたが、その冒頭の1節は「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。」と、主なる神に助けを求める願い、あるいは厳しい状況下での嘆きと言ってもいい祈りではじまっています。
「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。」この祈りはとても素朴です。私どもも「神様、どうか守ってください」と祈るのではないでしょうか。詩編の信仰者は、避けどころである神様のところへ避難しました。そして助けられ、守られ、慰めを得たのです。
詩編の信仰者もそうですが、私どもも、神様のもとへ行き、自分のような者が受け入れられ、赦される喜びをいただくのです。
嘆きをたたえに変えていただいた信仰者は、「わたしは主をたたえます」と賛美の言葉を重ねていきます。

これは想像でしかありませんが、詩編の信仰者は「わたしは主をたたえます」と賛美するのですが、取り巻く厳しい状況は何も変わっていなかったかもしれない。「主はわたしの思いを励まし わたしの心を夜ごと諭してくださいます」とあるように、夜ごと諭していただかないと眠られないようなことがあったと想像するのです。
さらには「陰府に渡すことなく」「墓穴を見させず」とあるように、死と背中合わせのようなところを通っていたのではないか。
しかし信仰者にとって、もはやいかなるものも、自らを支配することはできず、主からいただく喜びがまさっていたのです。信仰者は喜びの告白を記します。「わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。」(9)これは、いかなるときも、いっさいを主にゆだねることができる信頼の告白です。

「わたしの心」とありますが、自らの心が定まっていて、しっかりと落ち着く居場所を見いだしていることは、本当に強い信頼に生きることができるのです。強い信頼、と言いましたが、主なる神への強い信頼、それは信仰であります。
興味深いことですが、「心」と訳されている言葉は、「良心」と訳すことができます。文字通りには、良心が宿るからだの臓器とされていた「腎臓」のことです。わたしの腎臓は喜び、と訳してもぴんときませんから、あえて「わたしのはらわたは喜び」と訳してもいいと思います。自らもすべて見据えられないような心の奥底までも、深く信頼して主にゆだねることができるのは、大きな喜びです。

さて、詩編の信仰者が見ていたものは、旧約の時代では完結しなかったと言われます。主イエス・キリストによって成就したということです。新約聖書には主イエスが復活されたときに、その預言の御言葉としてこの詩編の言葉が引用されています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」(10)と主をたたえて告白した賛美は主イエスによって成就している。主のいつくしみ、とこしえの愛に生きる喜びを、主イエスと共に、代々の先達と共に、深い信頼をもって歌い継ぐことができるのです。

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