主の平安とお支えをお祈りしています。
日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
新年礼拝 2020 年1 月 3 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子
前 奏
招 詞 詩編100編 1b-3節
讃 美 歌 1-1節 〝主イェスよ、われらに〟
交読詩編 詩編121編 一 同
祈 祷
讃 美 歌 367-1節 〝偉大なみ神の〟
聖 書 コリントの信徒への手紙二 1章3-11節(新約325頁)
説 教 『祈りで援助する』 牧師 願念 望
讃 美 歌 459-1節 〝飼い主わが主よ〟
信仰告 白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年1月3日(日)Ⅱコリント1:3-11
「祈りで援助する」 牧師 願念 望
新しい年最初の主日礼拝を共に献げることができますことを心から感謝いたします。私どもは、昨年礼拝に集まることができないという厳しさ、苦しみを経験しました。そのときに深く思いましたのは、かつて初代教会が迫害に次ぐ迫害の中、礼拝に集まることができない苦難を生きぬいたのではないかということです。
パウロは「アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」と語りかけます。知ってほしいのは、苦難そのものばかりでなく、「神は、これほどの大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださる」(10)ことです。パウロは言葉を重ねて強調し「これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」と、信仰の告白をするのです。
パウロが語る「死の危険」とは、肉体的な命を奪われる危険であったのですが、それだけではなく、福音を福音でなくさせてしまうような、信仰の命を奪うような戦いにおける死の危険でもあったのです。
苦難に際して、自分たちの力では信仰を失ってしまいかねない、礼拝を続けられないような弱さ、不信仰を痛感する中で「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(9)と力を込めて告白するのです。
パウロたちは、教会生活の苦難の中で、主イエスが死から復活されたように、死からの復活を経験していった。同じ恵みを、私どもも知ることがゆるされているのです。
苦難が大きければ大きいほど、そこに主が働かれて、死のような現実に復活をもたらし、闇に光を与えて夜明けとしてくださる。「死者を復活させてくださる神を頼りにする」希望に、パウロたちと共に生かされていきたいと祈り願います。
パウロという名前は、ラテン語でパウルスですが、古代の神学者はその意味を「小さき者」と記しました。私どもにとってパウロは、偉大な神学者、牧師の中の牧師ですが、パウロは自分のことをいとも小さき者であると、主のみまえに知り続けたがゆえに、神の働きを強く深く経験していったのです。
この箇所の前半には、「慰め」という言葉が「慰める」「慰めてくださる」「慰められる」と形を変えて9回も登場します。これほどまでに言葉を重ねたのは文章としては異様なほどですが、それほどパウロの信仰生活、教会生活に、神の慰め、キリストの慰めが満ちあふれていたからです。
「慰め」という言葉は、元々の言葉で「パラクレーシス」ですが、かたわらに呼ぶという意味です。主イエスが私どもを、そのかたわらに呼んでくださる。主が共に生きてくださるということですし、かたわらに呼んで欠けを満たしてくださるのです。
主は私どもの経験すること、苦しみを、ご自身の体の一部として共に苦しみ、痛んでくださることは、慰めであります。パラクレーシス、すぐ横に呼んでくださるどころか、主の慰めは、その命のなかに包み込んでくださると言った方がいいと思います。
教会はキリストの体であると言われます。それは、主が私どもをその命とつながって生きるようにしてくださった。私どもが担っているものをご自身のものともしてくださった。苦しみばかりか、罪をも担って救いを与えてくださった。それほどの救い主がおられることの喜びと希望をパウロたちは知り続けていったのです。
さらにパウロたちは、キリストの苦しみを主イエスと共に負っていくことが慰めとなっていった。自分たちが福音のために苦しむとき、それは主イエスが先立って担い、経験してくださったことだと知るようになった。キリストのために苦労して苦しむことは、パウロたちにとって先立ってくださったキリストを知る喜びとなっていった。嘆きは喜びに、苦難は讃美に変えられていったのです。
加えてパウロたちは、神の慰めの働きが、互いの祈りの中にもあることを幾たびも知っていって、祈りの援助を強く呼びかけるのです。
教会が祈りに生きて祈りで助け合うことは、神の働きがそこに大いにあるのです。私どもはコロナの厳しい状況の中、神が豊かに働かれて、祈りで助け合う慰めをもっともっと教えられていきたいと願います。
互いに祈って助け合うことによって、私どもは愛に満ちた主のすぐ横に呼ばれ、その命の一部とされていく慰めに生きていくのです。
神の慰めをいただく喜びは自分たちのためだけではない。礼拝は祈りのときです。神が愛しておられる、あらゆる人のために祈りが用いられていく希望を抱いて、新しい年、共に礼拝に生きて、祈りに励んでいきましょう。