2020年6月28日(日)礼拝式次第と説教 「裁きの赤、救いの赤」

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。(6月中継続します)
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。(7月からは、ひと月に一回録画を掲載します。7月は5日(日)を予定。)
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年6月28日(日)10時30分
聖霊降臨節第 5主日礼拝
司式  牧師  願念 望
奏楽  三宅さやか

前 奏
招 詞     ローマの信徒への手紙5章5節
讃美歌     156-1節 〝目を上げ、わたしは見る〟
交読詩編     詩編86編6-13節
祈 祷
讃美歌             454-1節 〝愛する神にのみ〟
聖 書       ヘブライ人への手紙12章18-29節(新約418頁)
説 教       『裁きの赤、救いの赤』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌        513-1節 〝主は命を〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美      90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

 

説教 2020年6月28日(日)
「裁きの赤、救いの赤」       国分寺教会 伝道師 佐藤倫子
聖書箇所 ヘブライ人への手紙12章18-29節

■赤=慈愛

みなさんは赤色にどのようなイメージをもっていますか。良いイメージとしては運命の赤い糸、情熱、愛、ハートなど。でも一方でマイナスのイメージもあります。怒り、憎しみ、火、炎、信号の赤など危険を示すもの。良いものにしろ、悪いものにしろ、心に強く訴えかける色なのでしょう。教会でも赤を使う場面があります。ペンテコステのシンボルカラーは赤です。このペンテコステの赤色はイエス・キリストの受難や、注がれた聖霊、殉教者たちの流した血の色を表しています。また、中世の時代では、赤は慈愛を象徴していました。この赤色が、イエスの血の色と関係があるのかわかりません。でも、私は思います。イエスが流された血潮こそ、私たちを救うしるしだと考えた人たちがいただろうと。イエスこそ、この地上に来られた救い主であり、進んで「価値のない」とされた人々と交わられたことが、慈愛のイメージと重なったのでしょう。また、イエスは自ら進んで、神のためにその命を捧げられました。だから、高位聖職者の身分を表す色として赤色が選ばれたのでしょう。

 

■時代の変化と共に

しかし、時代の変化と共に、赤は慈愛よりも権威を表す色に変化していきました。権威主義に陥るのは、人間の悲しい性です。これは現代にも通じています。よかれと思って始まったことが、いつの間にか意味がすり替わり、その権威だけが一人歩きするのです。例えば、要人を迎える際に引かれるレッドカーペット。ギリシャ悲劇のアガメムノンでは、赤い絨毯は神々の通り道とされています。でも今では、栄光や賞賛を表すものとして用いられています。東洋では、赤は正しさや正義を表現する色です。また、めでたく、高貴で邪を避ける意味合いもあるそうです。それは「陽」の気、明るいもので満ちているからです。でも、同じ「陽」の字を使う「太陽」は全ての人に平等に降り注がれています。「陽」の気で満ちている赤い絨毯の上も全ての人に開かれていても良いのではないでしょうか。ましてや、全ての人を救うために流されたイエスの赤い血も、平等に流されたはずです。しかし、真逆のことが私たちの住む世界では起きています。

「BLACK LIVES MATTER」という言葉をご存知でしょうか。これはアメリカの黒人、ジョージ・フロイドさんが警察官に圧迫死させられた出来事をきっかけに全米で行われているデモのスローガンです。直訳すると、「黒人の命は大切」。当たり前で分かりきっているはずのことなのに、それをわざわざ言葉にしなくてはならない現実があるということです。これを受けて、日本でも著名人がネットなどで賛同の意を示していました。ところが、そこについたコメントの中にはひどいものがありました。「黒人差別は私たち日本人には関係のない話なのに何熱くなってんの。」でも本当に関係ないのでしょうか。

プロ野球、東北楽天ゴールデンイーグルスにオコエ瑠偉という選手がいます。ナイジェリア人の父を持つ彼がBLACK LIVES MATTERに反応して、自らの幼少期に肌の色が原因で受けた事柄、「自分が物凄く嫌だった過去」をTwitterに投稿しました。新聞にも取り上げられたので、ご存じの方もあるでしょう。しかし彼は、その記事を受けてさらにこう書きました。「メディアがこうやって勝手に差別とかいうけど、日本人一部にとって差別って言葉自体刺激的だし、これが差別なのか俺でもわからないから俺は使わない。」と。

「差別」という言葉を用いること自体がさらなる差別を生むこと、無意識に「普通」を求める社会がそこにはあります。

 

■救いの赤、裁きの赤

同じ人間なのに、私たちは勝手に違いをつけています。男や女、国籍、貧富など。そして、そこに「普通」を当てはめようとします。この社会にあって、私たちはイエスの、神の思いに応えていると胸を張って言えるでしょうか。

「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(ヘブライ12:29)

この「裁きの赤」に耐えうる私たちでしょうか。今もなお、多くの血が流されています。この世界が創られた時、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)はずでした。そして、すでに2000年前に、イエスの十字架と復活によって、「救いの赤」の時となっているはずなのに。その恵みのレッドカーペットを歩む私たちは、そこを歩く特権を与えられた者として、神の思いに応えたい。誰もが招かれている場所として、一緒に歩いていきたい。それはきっと、イエスが差別されている者、この世で小さくされている者と共に歩まれたような、歩みとなるはずです。イエスは「救いの赤」を流され、神の「裁きの赤」に応える私たちとしてくださいました。私たちを取り巻く2つの赤。その2つの赤に支えられて、私たちは今日もまた生きています。「今」、私たちは何をすべきでしょうか。

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