2020年10月25日(日)礼拝式次第と説教 「わたしたちを包むまなざし」

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 降臨前第9主日礼拝 2020年10月25日(日)午前10時30分
司式 牧師 願念 望
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞      マタイによる福音書11 章28-30節
讃美歌   361-1節 〝この世はみな〟
交読詩編  詩編8編 4-10節
祈 祷
讃 美 歌   116-1節 〝主よ、わたしたちの主よ〟
聖 書    箴言8章1節、22-31節(旧約1000頁)
説 教    『わたしたちを包むまなざし』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   226-1節 〝輝く日を仰ぐとき〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

説教 2020年10月25日(日)箴言8章1節、22-31節
「わたしたちを包むまなざし」              伝道師 佐藤 倫子

■初めに造られたもの

今日の箇所は、「主は、その道の初めにわたしを造られた」と始まっています。この、初めに造られた「わたし」とは、いったい誰でしょう。「知恵が呼びかけ、英知が声をあげているではないか。」(8:1)とあるように、「知恵」が「わたし」という一人称を用いて、わたしたちに語りかけてくる。そのような形をとっています。創世記では、神がどのようにしてこの世界を作られたかが記されています。ところが、今日、わたしたちに与えられた聖書、箴言8章は、「神が世界を作る前から、「知恵」は存在していたのだ」というのです。創世記には一切登場しない「知恵」が、突然、「私の方が先にあったのだ」というのです。いきなり私の方が優れている、と言われても、困ってしまいます。

 

■受け継がれた「知恵」

箴言という書は、創世記よりも後に書かれたことがわかっています。だから、創世記にない記述、「主は、その道の初めにわたしを造られた」と書くことができるのです。この箴言は、イスラエルの賢者と呼ばれる人々によって書かれたことが知られています。賢者と呼ばれる人々は、イスラエルの人々が困っているとき、また、神の言葉を寄り深く理解したいときに、その知識を活用し、進むべき方向を指し示す、一種の指導者でした。この人々は預言者とは異なり、神の言葉を直接に伝えるのではなく、それまで蓄積されてきた様々な知識を組み合わせて、新しい答えを探し出す、そのような方法で、人々を導いていたのです。神の言葉を直接聞くわけではない賢者たちは、神の言葉として伝えられた言葉をよりわかりやすく人々に伝えるために、様々な方法を用いています。わたしたちが説教を通して、神の言葉を理解しやすくなるのと同じように、賢者たちはたとえを用いたり、身近なものを用いたりして、神の言葉を伝えました。そして、その方法やたとえ話などは、師匠から弟子へと技術が受け継がれるのと同様に、時を越えて受け継がれていきました。この伝えられた技術は「知恵」として蓄積されていったのです。賢者たちがこの知恵について考えれば考えるほど、「知恵」は大きなものになっていきました。最初は、ちょっとした生き方の法則だったかもしれません。たとえば、油を保存するときにはきちんとふたをした方がよい、といったような、生活の知恵だったかもしれません。様々な経験から学んだこの「知恵」は、実はその経験の前から存在していたのではないか、と賢者たちは考えるようになったのです。なぜなら、この世のすべては神によって造られたのであり、人間の考えることもすべて、神から生まれているはずだ、と賢者たちは考えていたからです。この「知恵」は初めからこの世界の構造や秩序のうちにしまい込まれており、その初めからしまい込まれている「知恵」は、この世界を創造した神の知恵に基づいているのである。賢者たちはそのように考えました。だからこそ、ここで「主は、その道の初めにわたしを造られた」と記したのです。「知恵」の言葉は続きます。大地よりも先に造られたこと。深淵も水もなかったこと。地上の最初の塵もなかったこと。いろいろな例を挙げることによって、神の造られたほかのどのすべてのものよりも先に、「知恵」は自分が存在していたことを示すのです。しかし、そこに存在することだけでは喜びとはならなかったと語ります。知恵は「人の子ら」と共にあって初めて意味をなす、と言うのです。これは、「人の子」の創造が、知恵の創造や天地の創造よりは後であるにもかかわらず、待ち焦がれられていたことを意味しています。神がその創造の初めに造られた知恵によって、人間の出現が待たれていたのです。それは、神によって私たちが知られていたということを意味します。私が神を認識する遙か以前から、神が私たちを知っていてくださった。私たちはその存在の始めから神に知られ、決して見放されることはありません。

 

■まなざしの中で

わたしたちの歩みは、その始めから終わりまで、常に神のまなざしの中にあります。どんなに罪の大きく過ちの多い者であっても。キリストによって導かれたわたしたちは、様々な方法によって伝えられた神の言葉に従って、信仰を持ってこの世の旅路を歩んで行きたいと思います。わたしたちを包むあたたかいまなざしの中で、心に希望と知恵とを受け継いで、日々を歩んで行きましょう。

 

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