日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年7月26日(日)10時30分
聖霊降臨節第 9主日礼拝
司式 牧師 願念 望
奏楽 三宅さやか
前 奏
招 詞 ローマの信徒への手紙5章5節
讃美歌 2-1節 〝聖なるみ神は〟
交読詩編 詩編54編 3-9節
祈 祷
讃美歌 456-1節 〝わが魂を愛するイェスよ〟
聖 書 使徒言行録27章33-44節(新約269頁)
説 教 『奇跡の旅路』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌 536-1節 〝み恵みを受けた今は〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年7月26日(日)「奇跡の旅路」
使徒言行録 27章33-44節 伝道師 佐藤倫子
■自己責任の縮図の中で
今の社会を結んでいるのはお金でしょうか。権力でしょうか。どちらもあればあるだけ困りません。そうやって確かに弱者を切り捨てるように思えてしまう政策が目立つ日本社会。「自己責任」が空気のように蔓延しています。でも旅は自己責任の一言だけでしていけるようなものではありません。特に大きな船は一人では動かせないものです。乗る一人一人が協力して初めて同じ方向に進むことができる。1つの運命共同体として働く。それを繋ぐのは、一人一人のプロ意識かもしれません。でもそれだけではないと思うのです。私たちを結ぶもの、その関係。それはすごくくさく聞こえるかもしれませんが、愛だと思います。愛の関係は一人では作ることが出来ません。互いが思いやって生まれる関係です。旅先で受けた小さな親切を、今度は自分が次の人に伝えていく。今から丁度20年前に公開された「ペイ・フォワード」という映画がありました。人から受けた善意を次の人に与えていく、そうすることによって世界が幸せになるという内容でした。しかし、この映画公開されてから、世界は平和になったでしょうか。愛で溢れているでしょうか。残念ながら、そうとは言えない現実があります。なぜかといったら、自分さえ良ければという人がいるから、そこで善意の連鎖が止まってしまう。また、自分は恩恵を受けていないという人が足を引っ張り合う。そうして私たちの社会は20年経っても、どこか歪で歪んでいます。今、パウロの乗っている船。これはまさに私たちの社会の縮図です。そこには、人間の善意や愛など全く存在しない。ばらばらなものを一つにすることができるのは、やはり神の愛です。この愛は重いものです。だから人間はこの愛になかなか気付かないし、気付いてもペイフォワードできないと思い、尻込みします。自分の思い通りにならないものはいらないと突っぱねます。でも様々な経験をする中で、やっぱりこの愛がなければ生きていけないと思う瞬間があります。その愛の中で「生かされている私」への気付きが信仰の始まりなのだと思います。嵐に翻弄される中で、船に乗っている人たちは気付かされたのです。その気付きを促したのは、確信に満ちたパウロの言葉でした。
「皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」(使徒言行録27:25-26)
人々は、自分たちの力では何とも出来ない状況の中で、神に生かされていることに気付き始めます。神の助けは必ず与えられる。
■「一同は元気づいて食事をした」(36節)
これまで、誰にも顧みられることのなかった囚人の言葉が、船に乗っていた人々の心を動かしました。自分たちの力では何ともしようのない状況の中で、ただ神だけが救いであることを知ったのです。もちろん、そこにはさまざまな人がいました。そのような状況の中で、そのような人々と一緒に、パウロは食事をしました。
「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください」(使徒言行録27:33-34)
そう言って、パウロは感謝の祈りを捧げてから、パンを食べ始めました。そして、そこにいた者すべてが十分に満足するほど食べました。食事は体だけでなく、心も満足させます。大きな災害の後で、最初に取った食事が心と体とを安心させた、とはよく聞くことでしょう。そして、一緒に食事をするというのは、その相手を受け入れた証しです。パウロにとって、壁を取り除かれたのは神でした。共にいるすべての人を神が救ってくださった。この後船は無事に陸地に辿りつきます。それももちろん奇跡的なことですが、私は、この食卓、あのてんでばらばらで自分のことだけしか考えていなかった人々が共に食卓に着いていること、共に一人の神によって元気づけられていることこそ、この旅路の奇跡だと思うのです。
■私たちもその命の食卓を共に囲みたい。
この船には様々な立場、思想を持った人が乗っていました。その中には、神を神とも思わない人だって乗っていたことでしょう。私たちの教会にも様々な方がおられます。神を神と告白できない人もいるかもしれません。洗礼を受けておられない人もおられるでしょう。でもそれが教会という場所なのだと思います。特に、今は動画を通して見てくださっている方が幸いなことに沢山おられます。教会に足を運ぶことが難しい教会員の方。教会員のご家族。何かのきっかけで興味を持ってくださった方。本当に嬉しいことです。全ての人が乗ることのできる船、その歩みこそが奇跡の旅路なのだと思います。神の愛に結ばれているすべての方と共に。全員無事に、この旅を、この荒波を乗り越え、上陸したいと思います。