2020年8月9日(日)礼拝式次第と説教 「主は引き寄せてくださる」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年8月9日(日)10時30分
聖霊降臨節第 11主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  内田直美
前 奏
招 詞     箴言9章10節
讃美歌    1-1節 〝主イェスよ、われらに〟
交読詩編  詩編105編 1-5節
祈 祷
讃美歌    56-1節 〝主よ、いのちのパンをさき〟
聖 書     ヨハネによる福音書6章41-51節(新約176頁)
説 教     『主は引き寄せてくださる』    牧師 願念 望
讃美歌     390-1節 〝主は教会の基となり〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年8月9日(日)「主は引き寄せてくださる」
ヨハネによる福音書6:41-51          牧師 願念 望

旧約聖書には、その心臓部とも言えるような出来事が記されています。それは、出エジプトと言われる、旧約の民が長年奴隷として生きていたエジプトを出ることができた、神によって解き放たれて故郷へ帰ることができた出来事のことです。心臓にたとえられるということは、旧約の歴史の中で絶えず思い起こされていった、そして、いまこの苦難のときにも、主は再び出エジプトに相当するような、神のみ業を起こしてくださると信じて祈っていったということです。私どもも、自分たちではどうしようもないときがあります。そのときに、主なる神がみ業を起こしてくださることを信じて祈っていく必要があるのです。

旧約の歴史の中で、出エジプトの再来とも呼べることは、バビロン捕囚からの帰還です。旧約の民が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂していました。北王国はアッシリアに滅ぼされてしまった。その後南王国もバビロンに滅ぼされて、多くの者がバビロンに捕囚の民となっていったのです。預言者は、時が満ちたら必ず帰ることができると神の言葉を伝えるのですが、多くの者は信じなかった。自分たちが偶像礼拝に陥って裁かれたことを悔い改めることもしなかったのです。
しかし神の言葉は現実の出来事となって、およそ70年の時が満ちて、彼らは故郷に帰還することができたのです。出エジプトの再来と言うことができます。そのときの喜びを詩編はこのように歌っています。
「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて
わたしたちは夢を見ている人のようになった。」(詩編126:1)
人々は喜びの歌を歌い継ぎました。

主イエスの周りに集まっていた人々も、出エジプトを心臓部とするような歴史の流れを受け継いでいたでしょう。バビロンから奇跡的に帰ることができた、喜びの歌も歌い継いでいたのではないか。しかし、いつの間にか、自分たちの先祖はそのようであったと、信仰を問い直して受け継ぐことよりも、その子孫であるという血筋を誇る思いに留まっていたのではないか。
主イエスは、彼らをその思いから引きずり出すようにして、ご自身のものへと引き寄せていかれました。「わたしは天から降って来たパンである。」(41)と言われたことに人々はつまずくようにつぶやき始めた。天から来られた神の独り子、救い主とは信じられなかった。自分たちの理解を超えた神の言葉につまずいたのです。しかし、出エジプトにしてもバビロンからの帰還にしても、人の理解を超えた出来事です。そうであるのに、人はそれを受けるに価すると高ぶるときに、その信仰の輝きを失っていくことになるのです。私どもはどうでしょうか。高ぶるときに、つぶやきも生まれるのです。
主イエスは言われました。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(43・44)主なる神が、私どもを引き寄せてくださる。それは、ともすれば心の深いところで神様は助けてくださって当然だと思うようなところから、引きずり出すようにして引き寄せてくださる。それは、そのような主の働きを受けるに価しない者にあえて、恵みによって働きかけて、ご自身のもとへ来させてくださるのです。
主のもとに引き寄せられて、「わたしが命のパンである。」(48)と言われる恵みに生きるとはどいうことでしょうか。
旧約の民は、出エジプトのあと、荒れ野での生活をしながら故郷を目指しました。荒れ野で食べるものがないことがあった。飢えることが日常のことであった。私どもは飢えることの苦しみを忘れているかもしれない。私事ですが、子どもの頃に母がよく昔話をして、戦後にお昼のお弁当を持って行くことができなかったと言った。ほかにも持ってこれない人がいたので、運動場の脇で話をして教室に戻っていったと。
主イエスは、「わたしが命のパンである」と言われたときに、荒れ野で人々が天からのマナを食べたことを思い起こされました。それは、神から日々に与えられて食べて生きたことです。しかし、マナを食べたことは神による助けですが、マナを食べることそのものは救いではないのです。しかし、「命のパン」を食べることは救いに至るのです。「これを食べるものは死なない」とは、永遠の神の命とつながって生きることになるということです。「命のパン」を食べるとはどいうことでしょうか。
旧約聖書に、荒れ野の旅を振り返ったこのような御言葉があります。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)主イエスを信じてその御言葉を食べるように生きることは、「命のパン」によって生きることであるのです。「命のパン」を日々食して生きることは、主イエスが命を献げられることによって実現した、出エジプトよりもバビロンからの帰還よりもまさる神の出来事です。私どもは謙遜な思いで、主の命のパンを受けるに価しない者でありながら主が引き寄せてくださったことを信じて、日々に主の御言葉を私どもの糧(食べもの)として生きていきたい。

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