2020年6月7日(日)礼拝式次第と説教 「生きる道のともしび」

2020年6月7日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年6月7日(日)10時30分
聖霊降臨節第 2主日礼拝
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  内田直美
前 奏
招 詞     イザヤ書40章8節
讃美歌     464-1節 〝ほめたたえよう〟
交読詩編   詩編 118 編22-25節
祈 祷
讃美歌    459-1節 〝飼い主わが主よ〟
聖 書     ヨハネによる福音書14章1-7節(新約197頁)
説 教     『生きる道のともしび』  牧師 願念 望
讃美歌     463-1節 〝わが行くみち〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年6月7(日)        国分寺教会  牧師 願念 望
「生きる道のともしび」 ヨハネによる福音書14:1-7

およそ2ヶ月ぶりに、礼拝に集まることができました。もちろん、すべてが元通りではなくて、手探りのような、主なる神の助けを祈り求めながらの礼拝です。すぐには集まれない仲間のことも、ここで覚えながらの礼拝です。その意味では、自分のことだけを祈るのではなく、仲間のために、さまざまな苦難の中にある方のことを祈る礼拝です。その祈りは、主イエスがすべての人のために愛を持って祈っておられるその祈りに、私どもも連なる礼拝です。礼拝とは、もともとそのような、主なる神の祈り、愛の御心に結びあわされるときです。厳しい状況の中、礼拝を短縮したりして不十分さを抱えているようでありながら、かえって私どもは、本来の礼拝の姿に導かれているのです。

礼拝に集まることの再開にあたって、主の御言葉が示されました。
イザヤ書の41章10節「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える。」これは旧約の民が、故郷を離れて遠いバビロンの地で捕囚の民となっていたときの、神の語りかけと思われます。再び祖国に帰って神殿での礼拝を思い描きながら、ひっそりと異国で礼拝を献げていたときに与えられた神の言葉です。不思議なことですが、バビロン捕囚の時代に、やがて新約の時代にエルサレム神殿にこだわらない、それぞれの生活の場での会堂礼拝の基礎ができていきました。その姿は、主イエスと弟子たちにつながり、私どもも受け継いでいるのです。

主イエスは語りかけられます。「心を騒がせるな」(1)預言者イザヤが語り継いだ「恐れることはない、・・・たじろぐな、・・・あなたを支える」という主の御言葉と重なります。「心を騒がせるな」この主の御言葉を最初に聞いたのは、そば近くにいた弟子たちでした。十字架に主イエスが引き渡される直前、最後の夕食のときです。この先、どうなってしまうのか、先が見通せない中で、弟子たちのすべてを、私どものすべてをご存じである主が語られたのです。「心を騒がせるな。」
ヨハネによる福音書が書かれた頃、それは迫害の厳しい時代でした。自由に集まることができないで、地下にあるお墓で、殉教者の棺を囲むようにして礼拝を献げることもめずらしくなかった。
ローマ帝国の中では、キリスト者の群れは、私ども同様きわめて少数者で、やがて消えていくと思われていたようです。そのような厳しさと不安の中で、主の御言葉を聞くのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1)ドイツのある神学者は、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」という主イエスの言葉を、こう訳しました。「神を信じなさい。しかもわたしを頼りにして信じなさい。」「わたしを頼りにして信じなさい。」私どもは主イエスを、どのようなお方として頼り、信じるのでしょうか。

主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われます。主イエスを私どもの道であり、真理であり、命であると信じるところに、心を騒がせず、祈りを持って信仰に生きる喜び、慰めがあるのです。道、真理、命、三つが並行しているようですが、多くの神学者は、その中心は道だというのです。
理由を聞いて納得しましたが、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたそのすぐあとに、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と語られているからです。
主イエスは私どもの道です。主の御言葉は、道である主イエスのともしびとして、私どもを照らして導きます。私どもは容易に迷い、先を見通せず、不安を抱きます。しかし主イエスは私どもの道となってくださいました。

こんな祈りをなさったことがあるでしょうか。「主よ、私に道を示してください。どうしていいか分からずにいます。」私も、どうか道を示してください、と祈ることがあります。しかし主イエスは、あなたに道を示すとも、道を与えるとも言われずに、「わたしは道である」と言われるのです。主イエスは私どもが迷いやすいことをすべて知っておられます。すべてをご存じである主が私どもの道であると信じて生きるとき、神と共に祈る喜びを与えられて、主とつながって心を定めていくことができる。それは、先を見通すよりも、もっと確かな道に生きることであるのです。

初代教会で、ヨハネの教会はおそらく迷い、心を騒がせ、主よ道を示してください、と熱心に祈ったことでしょう。主もまた、行くべき道を示してください、という祈りを受けとめてくださるはずです。どこかにはっきりと見通せる道を見いだそうともがくとき、主イエスの御言葉が、聖霊の助けによって示されるのです。「心を騒がせるな」「わたしが道である」
ヨハネの教会に思いをはせて、祈ります。主よ、先の見えない厳しさの中に、私どもに道を示してください。しかし主よ、あなたこそが私どもの道であることを信じます。主よ、私どもの道として導いてください。主の御言葉が、心のともしびとして慰め、導きますように聖霊の助けを与えてください。

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