2021年8月8日(日)礼拝式次第と説教 「もうひとつの道」

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

2021 年 8月 8日(日)
司式 役員
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞      詩編86編3-4節
讃 美 歌   206-4節 〝七日の旅路〟
交読詩     詩編57編2-6節
祈 祷
讃 美 歌   566-1節 〝むくいを望まで〟
聖 書    使徒言行録20章32-35節(新約255頁)
説 教    『もうひとつの道』  伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   92-3節 〝主よ、わたしたちの主よ〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

 

説教 2021年8月8日(日)
「もうひとつの道」   伝道師 佐藤 倫子
使徒言行録20章32-35節

 

日本の教会の多くはこの8月を特に平和について考え、祈る時として過ごしています。

先日、黒い雨訴訟にようやく1つの決着がつきました。1945年8月6日の原爆直後に放射能を含んだ黒い雨が降りました。その雨に打たれて、深刻な健康被害を受けたのに、大雨が降った地域だけが援護対象とされたのです。大雨とされなかったその他の地域の人たちは対象からはずされ、被爆者健康手帳の交付が受けられませんでした。これは違法だとして訴えた原告84人全員に手帳の交付が命じられました。全面勝訴、本当に画期的判決です。ですが、この判決が確定するまでに76年が過ぎました。被爆者の声に、もっと早く誠実に向かい合っていたらと思わずにはいられません。

わたしを含めてかつての戦争の時代を直接知らない世代であっても、先達から語り継がれてきた言葉を通して、わたしたちは、1つの経験を共有しています。戦争の悲惨さを後世に伝えるため、被害の苦しみや悲しみを語ることはとても大切なことであり、語り続けていく役割を私たちは担っています。しかし日本の戦争の歴史には、被害の側面だけでなく、加害の側面もあります。それを見つめ直すということも同様に大切にすべきだと思うのです。「ノーモア・ヒロシマ」という言葉に対して「リメンバー・パールハーバー」という反論が返ってくることがあります。しかし本来両者は対立するものではありません。平和のために、真珠湾も、広島も忘れない。それが大切だと思うのです。

 

イエスは「平和を実現する人々は幸いである」と教えられました。「平和」とは、黙って待ち望むのではなく、実現するもの。まさに「積極的平和主義」と言えるでしょう。しかし一方で、主の平和を告げ知らせる者の道には絶えず困難が待ち受けているのもまた事実です。

 

今日の聖書では、パウロはこれまでの歩みを振り返り、それがひたすら主に仕えるものであったことを公言します。そして今、苦難が待ち受けていることを承知しつつ、それでもエルサレムへ行かなければならないとパウロは語るのです。

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒言行録20:32)
パウロは、自分の影響を受けた人々のことを全て、神とその恵みの言葉とに委ねると語ります。これは責任放棄ではありません。パウロは一人の人間であり、その能力には限界があります。そのパウロ自身を支える力、それが神ご自身であり、恵みの言葉です。そこに立ち返るとき、人は真の自由を得、神の民として歩むことができるのです。
そしてパウロはこう続けます。「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように」(使徒言行録20:35)と。
神が一方的に私たちを愛してくださったこと、その愛を今も与えられていることを知っているからこそ、その愛に応えるべく、どのような状況においても生きることができるのです。その愛を伝えることができるのです。その道を走り通すことができるのです。
私たちは、自分たちの手にしたものを手放すことに恐怖心を抱きます。自分の自由になるものだけを手元に置いておきたいと思っています。そして、それが自分にとって「自由」であると信じているものです。しかし、それは本当に「自由」なのでしょうか。

 

パウロ自身の、与える幸いに人生が変えられた原動力はどこにあったのでしょう。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

それは、キリストを信じ、受け入れ、キリストが彼の心の中で働かれたからです。握り込んでいるものを手放した時、初めて、その手に新しいものをつかむことができるのです。

 

今日の聖書箇所はパウロの決別の言葉であり、パウロと離れて歩み始めるエフェソの長老たちに対するはなむけの言葉です。この言葉が今、私たちにも向けられています。
私たちの前には苦難があります。でも、「もうひとつの道」への誘いは、苦難と比して余りあるもの。捉らえた方がこれからも救ってくださる。召される方を信じて、もうひとつの道へ。共に歩んでいきましょう。

 

 

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