2021年1月10日(日)礼拝式次第と説教 「主イエスの洗礼から学ぶ」

2021年1月10日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

新成人祝福礼拝 2020 年 1 月 10 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞    エレミヤ書29章11節
讃 美 歌   83-1節 〝聖なるかな〟
交読詩 編  詩編2編 4-12節
祈 祷
讃 美 歌   127-1節 〝み恵みあふれる〟
聖 書    マタイによる福音書3章13-17節
説 教    『主イエスの洗礼から学ぶ』 牧師 願念 望
讃 美 歌   294-1節 〝ひとよ、汝が罪の〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2021年1月10日 マタイ3:13-17
「主イエスの洗礼から学ぶ」            牧師 願念 望

洗礼者ヨハネが預言者として主イエスのことを伝えたとき、このように語りました。
「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(11)
履物を脱がせるのは、当時、奴隷の中でも身分の低い者がしていたことです。ヨハネは、主イエスの前にひざまずく資格もないと言いたかったのでしょう。

私どもは元々神の御前にどのような者であるかが、ヨハネの告白によって分かるのです。ひざまずいて祈る資格を持ち合わせてはいないということでしょう。祈ることができるのは、主なる神が憐れみを持って招いてくださるから、その恵みのゆえに、ひざまずいて祈り、礼拝を献げることができるのです。

ヨハネは、洗礼についてこのようにも語りました。それは主イエスを指し示した言葉です。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けているが、・・・
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(11)
このヨハネの言葉は、どのように実現したのでしょうか。キリスト教会は、教会の誕生日とされるペンテコステの日、聖霊降臨日に起こったことが、聖霊と火で主イエスが洗礼をお授けになったことと信じています。
「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ」(使徒言行録2:3)たことが、聖霊と火による洗礼であって、そこからキリスト教会の歩みがはじまったと言えるのです。
そして、キリスト教会に、洗礼を授けていく恵みの使命が与えられています。そして、洗礼と共に、聖霊を受けることが約束されているのです。ペトロが聖霊降臨日の説教で語りました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38)
ですから、水で教会が授ける洗礼と、聖霊による洗礼を区別していないのです。聖書に約束されているように、信仰を持って主の御名によって洗礼を受けるその時に、聖霊を受けている。そのことは決して感覚的なものではなくて、信仰によって受け取り信じていくものです。
洗礼を授けられて、その時に聖霊を恵みの賜物として受けるのです。そのことを私どもに先立って最初に経験なさったのは、主イエスです。「イエスは洗礼を受けると、・・・天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」(16)これはおそらく、主イエスにしか見ることがゆるされない神の聖なる霊であったのではないか。父なる神と、独り子である主イエスのみが聖霊と共に生きることにふさわしいのです。しかし主は、その聖なる命の霊を私どもにも分け与えることを、喜びとしてくださったのです。

主イエスの洗礼の時に、天からの語りかけがありました。
「『これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という声が天から聞こえた」(17)のです。この語りかけは、先ほど交読した詩編2編にも記されています。その当時、王が立てられるときに朗読された詩編とも言われます。
詩編の預言がやがて、主イエスによって成就しました。
『これはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という天からの語りかけは、主イエスのみが受けるにふさわしいものです。しかしその天からの語りかけを、私どもも主イエスと共に受けるように主イエスは救いの道を開いてくださいました。「わたしの愛する子、わたしの心に敵う者」と主が語りかけてくださることを、私どもは主イエスの救いによって受けとることができるのです。
主イエスが洗礼をお受けになった時、「天がイエスに向かって開いた」とあります。主イエスによって天が開かれるのです。こうして礼拝を献げているとき、主イエスに向かって天が開いたように、私どもに向かって天が開いていると信じることができるのです。主なる神と私どもとの間に、何もさえぎるものがない。すべてを知っているくださることは、全部お見通しという意味では畏れ多いことです。しかし悔い改めつつ、主の赦しのもとで、すべてをお任せすることができるのです。
天が開かれたということはまた、主は私どもと共にいてくださるということです。主イエスは、どのような時も、傍らにいてくださるのです。 主イエスが洗礼をお受けになったヨルダン川は、海抜マイナス300メートルあまりの死海に注ぐ、地球で最も低いところを流れる川です。最も低い川で洗礼を受けてくださった主イエスは、私どものひとりとして、最も低く困難なところにも、そのそばにいて支えてくださる。そして私どもが主イエスと共に「わたしの愛する子、わたしの心に敵う者」と天からの語りかけを聞いて生きることができるのです。

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