2020年12月6日(日)礼拝式次第と説教「信じることの恵み」

2020年12月6日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2020 年 12月 6 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    詩編96編1-3節
讃 美 歌   127-1節 〝み恵みあふれる〟
交読詩編   詩編98編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   241-1節 〝来たりたまえわれらの主よ〟
聖 書    マタイによる福音書13章53-58節(新約27頁)
説 教    『信じることの恵み』 牧師 願念 望
讃 美 歌   458-1節 〝信仰こそ旅路を〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2020年12月6日(日)マタイ13:53-58
「信じることの恵み」               牧師 願念 望

先週から、教会のこよみでアドベントに入っています。アドベントは到来という意味がありますが、アドベントを待降節と呼んでクリスマス礼拝を待ち望んで備えていきます。ただ楽しみに待つというよりも、私どもの信仰を問い直しつつ待っていくときです。この朝与えられています箇所は、どのように信仰を問い直しているのでしょうか。ご一緒に思いを深めてまいりたい。

まず最後のところには、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」(58)とあります。「そこ」というのは、ナザレのことで、主イエスが育っていかれた村里です。
このような言葉を読みますと、聖書が真実な書であることがよくわかると言われます。聖書は、長い時代を通して、神に選ばれた者たちが、神の霊の働きによって書き記していきました。
そのときに、主イエス・キリストの言葉とその働きを伝えた福音書が、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と、主イエスでさえも、うまくいかなったことを真実に記しているのです。

神様なら、私どもがいかに不信仰であっても、それをものともせずに、力あるわざをなさっていかれると考えるでしょうか。
確かに、旧約聖書の歴史をたどりますと、旧約の民はその不信仰、とくに偶像礼拝によって、自ら招いた苦難にもかかわらず、主は救いの歴史を貫き通してくださった。やがて救い主を到来させてくださったのです。しかしもう一方で、人は自らの不信仰によって招いてしまう事態もあることが示されています。主は、わたしを信じて、信仰を働かせて従ってくるようにと、愛をもって招いてくださっているのです。

主イエスが故郷で礼拝説教をなさったとき、「この人は、この知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」(54)とつまずいているのです。聞いていたナザレの人たちは、マリアから生まれ、大工ヨセフのもとで育った主イエスを、神から遣わされたお方としては全く見ることができなかったのです。
では、王宮やお金持ちの家庭に育ち、高い教育を受けて、社会的にもりっぱな肩書きを持っていたら、少しは受け入れられたのでしょうか。もしそうだとすれば、とても悲しむべきことです。
先日、ヨハネ黙示録のマンガ聖書について書評を書いて送りました。2月号の「信徒の友」に掲載されるそうです。
黙示録は、当時の代表的な七つの教会に宛てた手紙が、2章と3章に記されています。その教会の中には、おそらく大勢の者たちが集まり、豊かな財力を持ちながら、ほめられるところがほとんどなく、しかも信仰が死んでいるとさえ言われた群れがあります。しかし主は、それでもなおあきらめてはおられずに愛をもって手紙を書かれるのです。またもう一方で、大きな港町にありながら経済的には貧しく生きていた教会が、信仰が豊かで、全く改善するところは示されず、このまま「死に至るまで忠実であれ」と神様からほめられているのです。考えさせられます。

私どもは、神様がご覧になるなら、乏しく実に小さな群れです。そのことをしっかりと自覚しているでしょうか。主が支えてくださらなければ立ち行かないということです。主なる神が私どもを、主イエスによって赦し受け入れて、その欠けを満たし続けてくださっているから教会なのです。何はなくとも、主イエスが共にいてくださることがいかに力強く、信頼を置いて生きることができるかを、礼拝において知り続けていくのです。

さて、ナザレの村の人々は、「この人は大工の息子ではないか」(55)とつまずきました。調べますと、「この人」とあるのは、「こいつ」とか「あいつ」と訳してもいいような、軽蔑を込めた言葉であると言われます。
人を肩書きや外側で見ることは、私どもにとっては普通にできることかもしれません。しかしそれのみに頼ると、その先には神への不信仰が実を結ぶのです。
私どもとは違って、主なる神、主イエスは、私どもを外側や持っているもので見るのではなく、真実に見てくださるのです。黙示録の七つの教会を主が見られたように、私どもの教会もその外側や持っているものではなく真実に見てくださるのです。真実に見てくださるのは、さばくためではなく、豊かに信仰をもって主にさらにより頼むためです。

主は、何を持たずとも信仰を抱いて祈る者たちと共に働こうと待っていてくださいます。それは、私のような者といっしょに働きたいと願ってくださっているということです。とてももったいないことですが、主が私どもを赦し受け入れて、その信仰と共に働こうとお生まれくださった恵みを心に刻んでいきましょう。

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