教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
降臨節第6主日礼拝
2022 年 1 月 30日(日)
司式 役員
奏楽 内田 直美
前 奏
招 詞 詩編8編4-5節
讃 美 歌 17-2節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編 詩編51編12-19節
祈 祷
讃 美 歌 153-1節 〝幸いな人〟
聖 書 マルコによる福音書1章40-45節(新約63頁)
説 教 『一線を越えて』 牧師 佐藤 倫子
讃 美 歌 520-1節 〝真実に清く生きたい〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2022 年1 月 30日(日)
「一線を越えて」 牧師 佐藤 倫子
マルコによる福音書1章40-45節
■彼は一線を越えた
なぜイエスの癒しの活動は、悪霊つきと呼ばれる人々や皮膚病を病む人、からだの不自由な人に集中していたのでしょうか。彼ら彼女らがユダヤ社会でどれほど人々に恐れられ、忌み嫌われていたかを知らなければ、この問題は分かりません。彼らの負う困難な重荷は、神の呪いと関連付けられていました。神の名のもと、社会から葬り去られていたのです。
そのような現実の中で、重い皮膚病の人はイエスに近付きました。彼は、肉体的な辛さだけではなく、宗教的にも穢れた者としての重荷を負わされ、神にも、他の人間にも近づくことを許されていなかった。その彼が、一線を踏み越えたのです。
この状況そのものが、当時としては衝撃的だったことでしょう。そのような厳しい禁を犯してまで、イエスのもとにひざまずいた人を、イエスは深く憐れんで、手を伸ばして触ったのです。それは、当時の価値観で見れば、イエスも穢れた者になった、ということです。
■深く憐れんで
この「深く憐れむ」と訳されているのは、「内臓、はらわた」を意味する語から派生したもので、「はらわたを衝き動かされる」「内蔵を引き絞られる」という意味を持つ言葉です。
ここから、キリスト教における「憐れみ」が、援助者が困窮者に対して上から下に、或いは遠く離れて、客観的に眺める行為ではなく、援助者と困窮者という両者を隔てる時代的、文化的な偏見、或いは現実的な立場の違いを飛び越えて、まさにその苦しみを「共に感ずる」こと、つまり「共感」であることが分かります
イエスは、自分自身を安全圏において、苦しみ悩む人を救い上げたのではありません。相手と同じところに立って、いや、もっと下に降りてその人に奉仕しました。人々は重い皮膚病の人を病人、穢れた者としてしか見ませんでした。ですが、イエスはこの人を人間として尊重したのです。人は、自分が一人の人間として大切にされた時、本当に生きる力と希望がわいてくるものです。イエスが行った癒しとはそういうものだったのです。
主の愛で満たされている、と感じる時、燃え上がるような感謝の祈りと共に、静かな、それでいて堅固な信頼の気持ちが溢れ出ます。それは、大声を上げて露わにするようなものではなく、躍り上がって表現するようなものでもなく、静かに、ただ主の御前に心静かに頭を垂れるような信仰の証しなのでしょう。
■新しく生きる
神は世界と人間の創造主。私たちは神に養われ、生かされている存在です。
全ての人は神に創造された、かけがえのない存在であることを思い起こしたいと思います。自分も他人も傷つけてはならない存在なのです。
イエスにとっての伝道とは、出会った一人の人間を救い、愛し、守り続けることでした。99匹を置いて1匹を捜しに行く羊飼いに、1匹の救出を宣伝に使って大勢を集めるなどという戦略とは程遠い。イエスは大勢集めることより、一人の人に救いが貫徹すること、一人の人に神の国がなることを求める方なのです。
重い皮膚病の人は一線を踏み越えてイエスに近付きました。そしてイエスもまた、その人の声に、思いに応えようと、一線を越えられたのです。病の人、貧しい人、社会から落ちこぼれ、切り捨てられた人。大きな傷を負った人々を訪ねて歩き、「神はあなたを愛しておられる。あなたは決してひとりではないんだよ」と語り続けられたイエス。
私たちもまた、その歩みへと招かれています。この世的な価値観から一歩前に飛び出すこと。他者の痛みに「共感」し、「はらわたを衝き動かされ」、共に生きる歩みへと。私たち自身の歩みがどうなるかさえわからない現実が、目の前にあります。様々な不安や心配を抱えてそれぞれがそれぞれの日々を歩んでいます。しかし、その現実の中でなお、「他者と共に生きよ」「他者のために生きよ」と呼びかけられているのです。
時に自分にとって都合のよい言葉だけを聞こうとする自分を見つめつつ、独りよがりにならず、仲間と共に、迷ったり立ち止まったり、間違ったりしながら、それでも主の言葉を聞き求める歩みを一緒に重ねていきたい、そのように願っています。