2022年1月23日(日)礼拝式次第と説教 「富の分配より、貧しさの共有」

2022年1月23日

 

教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

降臨節第5主日礼拝
2022 年 1 月 23日(日)
司式 牧師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    詩編95編6-7節
讃 美 歌    361-1節 〝この世はみな〟
交読詩編     詩編84編11-13節
祈 祷
讃 美 歌   56-2節 〝主よ、いのちのパンをさき〟
聖 書    マルコによる福音書6章34-44節(新約73頁)
説 教    『富の分配より、貧しさの共有』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   393-3節 〝こころを一つに〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2022 年1 月 23日(日)
「富の分配より、貧しさの共有」   牧師 上林 順一郎
マルコによる福音書6章34-44節

 

今日の聖書、「5千人に食べ物を与える」出来事は、マルコだけでなく、マタイ、ルカ、ヨハネと四つの福音書すべてに出てきます。そのことはこの出来事がいかに重要なものであり、聖書の時代の人々にとってきわめて意味深いものだったと言えるでしょう。ある聖書学者はこの出来事は「神の国の饗宴の先取り」であったと説明しています。そのとおりだと思いますが、この出来事の背後には「神の国とは何か」をめぐってイエスと弟子たちの間で戦いがあったと考えます。

今日の聖書は「イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、」という記述から始まります。この群衆は自分勝手に行動し、交流や連帯もない孤立した人々の群れとして描かれています。さらに群衆は「人里離れたところ」、すなわち「荒れ野」にいます。荒れ野は町から遠く離れたところで人々が日々働き、生産を上げ、生活を支えていくような「町」ではないのです。ここにいる群衆は放浪し、仕事もせずに一日を空しく過ごしていた人々です。その空しい一日が今日も終わりに近づきます。

弟子たちはイエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分の周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」 と提案します。この提案は正当です。食べ物や飲み物を得ることは自分の責任でなされるべきものです。「自己責任論」が弟子たちの主張です。しかし、イエスは弟子たちに「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と、「弟子たち(教会)の責任」をイエスは問います。当然、弟子たちは反論します。「私たちが200デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせなければならないのですか」

 

豊かさの分配
200デナリオンとはどれぐらいの金額かというと、1デナリオンは当時の労働者の一日分の給与とされていましたから、今日でいうと1万円近い額になるでしょう。そうすると200デナリオンは200万円近い金額になります。弟子たちは200万円もの金額が必要になると素早く計算したのです。すべてのものをお金に換算して考える、それはこの世界の原則です。

しかし、イエスは「ここにパンはいくつあるのか、見てきなさい」と問われます。イエスは物をお金に勘定しません。そこにある物そのものを注視します。弟子たちは行って確かめ、「五つあります。それに魚が二匹です」ヨハネ福音書ではそれは少年が持っていたものでした。

弟子たちは「これだけでは何の役にも立たないでしょう」と答えます。イエスはそれを聞いて人々を50人、100人の組に分け青草の上に座らせました。この「組に分ける」という言葉は英語のシンポジウム、元々は「宴会」という意味です。イエスは群衆を50人、100人ずつからなる「宴席」を造ったのです。日本語でいえばイエスは群衆を「車座」に座らせたのです。それまでお互いに他人同士の群衆が車座になったとき、見知らぬ他人ではなく、飲食を分かち合い、ともに生きる仲間、共同体の一員になっていくのです。

 

◾️貧しさの分かち合い
イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された」。ここでは「天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え」とありますが、これは誤訳です。「天を仰いで、祝福した」が、正しいものです。イエスは目の前にある五つのパンと二匹の魚、少年が持っていた貧しい食物をありのままで受け入れ、それを祝福されたのです。そして「皆に分配された」。この「皆に分配する」はむしろ「みんなと分かち合う」と訳した方が適切でしょう。みんながそれを分かち合ったのです。その時、予想外のことが起こります。車座の人々が懐に隠し持っていたパンや食事を取り出して隣人たちと分かち始めたのです。それはまるで「宴会」のようです。

人々は食べて満腹した後、残ったものを集めると12のかごにいっぱいになった。12の籠とは新しい12部族、新しいイエスの共同体、すなわち教会です。そこには「分かち合いの残り」があふれているのです。

 

相田みつをさんという仏教徒の書家がいます。その人の書に「うばい合えば、足らぬ。分け合えば、あまる。うばい合えば、憎しみ。分け合えば、安らぎ」、というのがあります。分け合えば、余る、それが神の国の姿です。豊かさを分配するのではなく、貧しさを分かち合うところに神の国が存在するのです。教会はいま神の国の先取りとして生きているか、問われています。

 

 

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