新型コロナウイルスの感染が急激に拡大し、東京都では緊急事態宣言が延長されました。
こうした事態に対して感染の危険を避けるために9月26日(日)までの主日礼拝を引き続き在宅礼拝といたします。オンライン配信や説教要旨などを用いてそれぞれの場所で礼拝をお献げください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られるようにお祈りいたします。
2021 年 9月 19日(日)
司式 役員
奏楽 三宅 さやか
前 奏
招 詞 詩編19編2-5a節
讃 美 歌 3-1節 〝扉を開きて〟
交読詩編 詩編119編33-40節
祈 祷
讃 美 歌 153-1節 〝幸いな人〟
聖 書 マタイによる福音書19章16-22節(新約37頁)
説 教 『まなざしに生きる』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 512-4節 〝主よ、献げます〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年9月19日(日)
「まなざしに生きる」 伝道師 佐藤 倫子
マタイによる福音書19章16-22節
■満たされない思いを抱えて
ある金持ちの男の人がイエスの下に走り寄って跪きます。彼は聖書もよく読み、律法も守りながら、清く正しく生きてきました。しかし、それでも何かが足りないと感じていました。救いの確証が得られない。まだ何か足りない、このままではダメだ。もっと、もっと……。
イエスと出会った時、「この人ならその答えを与えてくれるかもしれない」と直感したのでしょう。ところが、イエスの答えは、「十戒を守れ」というような、月並みな内容でした。
■貧しい人々に施しなさい
「私は入門編ではなく、上級編の答えを聞きたいのだ。私を無学の弟子と一緒にしないでくれ」と、彼はそう言いたかったのかもしれません。彼は言葉を変えて、こう言います。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(マタイ19:20)。反発の思いも感じられる言葉です。
イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(マタイ19:21)と言われました。イエスは、この青年が自分でも気づいていない急所を見抜いておられたのです。立派な行いをし、敬虔な思いを持ちながら、神を完全に信頼して歩むことが出来ていない。彼が財産を最後の拠り所としていたことを知っていたイエスは、「あなたの病は、実はそこにある。それがあなたと神を隔てている」と診断されたのです。
金持ちの青年に対するイエスの言葉の厳しさに、弟子たちは驚きます。特にこれは当時、当たり前とされていた、「お金持ちは持っている中から一部を貧しい人のために使いなさい。一部でも他人のために使えば、神さまはもっと恵みをくださる」という価値観を遙かに超えて、当時の常識をひっくり返す言葉でした。さらに聖書の時代、神さまに祝福されている証拠の一つが、富を与えられるということでした。
しかし、「神は何でもできる」(マタイ19:26)という神の可能性にこそ、真の希望を見出すことが出来る。神の可能性は、私たち人間の可能性の延長線上にあるのではなく、それが閉じたところから始まります。
だからこそイエスは、自分が「持っている」と思っているものを全て差し出して、神さまを中心とする生き方を選びなさいと呼びかけておられるのです。
■まなざしの中で
イエスのもとを訪ねた金持ちの青年は、満たされない思いを抱いていました。もっと、もっとと彼を駆り立てたものはいったい何だったのでしょう。
翻って、私たちは主の前でいったい何を望んでいるのでしょう。私たちが本当に目指した豊かさとはいったい何だったのでしょう。私たちはいったい何をそこに見ているのでしょう。もっと、もっとと自分を追い込んで、そこに見出したものはいったい何だったのでしょう。
「何かができる。何かを持っている。だから自分は優れている。」別の言葉で言えば、「生産性が高いから自分は価値がある人間だ。」わたしたちは、ときどきそのような考え方をしてしまうものです。でも、その反対の立場に置かれたとき、途端に自信を失います。自分自身を受け入れられなくなります。自分には価値がないとしか思えなくなるのです。
しかし、イエス・キリストという方の言葉や行動には、わたしたちが当たり前だと思っている視点をひっくり返す力があります。
イエスは「視点を移せ」と言っているのではないでしょうか。有り余るものに、さらに何かを増し加えて安心を得、永遠のいのちまでも手にしようとした彼。しかし、掴んだと思っても実感できない苦しみ。もっと何か、もっと別のことが……。必死で手を伸ばし、虚空に何かをつかみ取ろうとしてきた私たち。
手を握りしめるのではなく、その手を開け、と主は言われるのです。向上心を否定されるのではありません。神の可能性に全てを委ねよ、と主は言われます。
それは、神がキリストによって私たちを赦してくださったように、私たちも赦し合うこと。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも愛のまなざしの中で歩むこと。そこに私たちの真の歩みがあるのです。互いに祈り合い、支え合いながら今週も神のまなざしに生かされていることを覚えつつ進みましょう。