2020年9月20日(日)礼拝式次第と説教 「キリストの声を聞き続ける」

2020年9月20日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年9月20日(日)10時30分
聖霊降臨節第 17主日礼拝
司式   牧師 願念 望
奏楽  内田直美

前 奏
招 詞     エレミヤ書29章11節
讃美歌    51-1節 〝愛するイェスよ〟
交読詩編  詩編23編
祈 祷

讃美歌    459-1節 〝飼い主わが主よ〟
聖 書     ヨハネによる福音書10章1-6節(新約186頁)
説 教     『キリストの声を聞き続ける』    牧師 願念 望
讃美歌     461-1節 〝みめぐみゆたけき〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年9月20日(日)ヨハネによる福音書10:1-6
「キリストの声を聞き続ける」                   牧師 願念 望

田園風景と聞くと、どんな光景を思い浮かべられるでしょうか。ふるさとの風景を思われる方があるかもしれません。小学校の時に15分ほど歩いて通学していた周りには、家の近くに小さな川が流れ、その川が注ぐ大きな池があり、両側に田んぼが広がる道路を通って行きました。

主イエスと弟子たちもまた、よく歩かれた田園風景があったのですが、そこには羊と羊飼いがいる光景がとても身近なものだったようです。主イエスは、御自身を羊飼いにたとえ、また私どもを羊にたとえて話をされました。神様が羊飼いとして、私どもが羊として描かれるのは、旧約聖書から続いていることです。

この朝与えられています箇所にも、羊と羊飼いが登場するのですが、当時の見慣れた風景が語りかけられます。羊飼いは、昼間は羊たちを放牧して草を食べさせるのですが、夜になると門番がいる囲いの中に入れてしっかり危険から守ります。次の日になると、羊飼いは羊を呼んで柵の外に連れ出すのですが、羊たちは羊飼いの声をちゃんと聞き分けてついて行く。羊飼いではないほかの人が読んでも決してついて行かないというのです。
今日の箇所について、ある本を読んでいますと、羊を守るための囲いの中には、ひとりの羊飼いの羊たちだけではなくて、複数の羊飼いのそれぞれの群れの羊たちが一緒に入っていることがよくあるというのです。それぞれの羊たちは、自分たちの羊飼いの声を聞き分けてついて行く。ほかの羊飼い、その羊たちにとっては偽物の羊飼いにはついて行かないというのです。「羊はその声を聞き分ける」(3)とはそういうことです。また「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあるように、羊をすべて名前をつけていて見分けることができるというのです。

神様と私どもひとりひとりが、羊と羊飼いにたとえられていると言いました。主イエスが、私どものまことの羊飼いとして、ひとりひとりの名前を呼んでくださる。地上のどんな羊飼いよりも、主イエスは私どもを愛して守り、「先頭に立って」導いてくださるのです。問題は私どもです。たとえに出てくる羊たちは、しっかり羊飼いの声を聞き分けるのですが、私どもはどうか。キリストの声を聞き分けることができているでしょうか。私どもは主イエス以外のものを頼みとしてついて行こうとすることはないか、問われているのです。
どうすればしっかりとついて行くことができるのか。それは主イエス・キリストが、どのようなお方として御自身を示し、従ってくるようにと招いておられるかにあります。
10章を読み進みますと、11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語りかけておられる。主イエスは羊のために命を献げてくださった羊飼いです。十字架の上に命を献げ、私どもが受けるべき神の審きを代わりに受けてくださった。主イエスは神の愛をあらわし、生きてくださった。死からよみがえられて今も、教会のまことの牧者として共にいてくださる。
この礼拝は、主イエスが愛する羊のために命を献げてくださった、まことの羊飼いであると信じて、主イエス・キリストの声を聞き続けるときです。

9月に入って、先週から、西東京教区では、ようやく牧師就任式を執り行うことができるようになりました。いつもの年のように、方々から集まってではなく、教会員とごくわずかな関係者のみでの就任式です。
そのときに教区の常置委員会のメンバーとして私が担当させていただいた就任式で、司式者として勧告するのですが、こう語りかけます。「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えなさい。」毎回そうなのですが、自分への語りかけとして襟を正されます。
聖書の御言葉から、命を献げてくださった良い羊飼いである主なるキリスト・イエスの声を共に聞き続けることは、教会の命の源です。私どもの努力や心がけだけで保てることではありません。
主イエス・キリストが聖なる霊として共におられて、私どもに御自身の声を聞かせてくださる。その恵みに教会は生きてきました。これからもその恵みは続くのです。神の恵みは、どこまでも広くすべての者に注がれている。田園風景を独り占めできないように、神の恵みはすべての人に向けられているのです。主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(16)と言われます。私どもで、神の恵みを狭くしてはならないのです。
大切なことは、主イエスが羊飼いで、私どもは養われる羊です。そのことは恵みであり、慰めです。自分が自分の羊飼いとなって、すべてを治めようとするところから救い出されて、私どもはキリストの羊として生きることができるのです。

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