2021年7月25日(日)礼拝式次第と説教 「走れ!神のゴールへ」

2021年7月25日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 7月 25日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    詩編92編2-4節
讃 美 歌   463-1節 〝わが行くみち〟
交読詩     詩編63編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   536-1節 〝み恵みを受けた今は〟
聖 書    フィリピの信徒への手紙3章13-14節(新約365頁)
説 教    『走れ!神のゴールへ』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   528-4節 〝あなたの道を〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

 

説教 2021年7月25日(日)
「走れ!神のゴールへ」   牧師 上林 順一郎
フィリピの信徒への手紙3章13-14節

 

東京オリンピックがコロナ禍の中で、混乱や変更を余儀なくされながらも無理矢理に始まったという感じで先が心配です。

ところで「パウロはオリンピックを見ていた」といえば、「ウソ~」と思う人も多いでしょう。パウロが実際にオリンピックを見物していたということは聖書のどこにも書いてありませんが、「競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。競技をするものは皆、すべてを節制します。彼らは朽ちる冠をえるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠をえるために節制するのです。だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」(コリントの信徒への手紙一、9:24~26)という言葉には徒競走、ボクシングなどの競技や訓練の様子が具体的に書かれています。

パウロは古代ローマの社会で行われていた競技場での競技が好きで、若い頃はローマの円形劇場で行われていたスポーツ競技を楽しんで見ていたと想像できます。パウロは特に走る競技が好きだったようです。というのもパウロは手紙の中で「走る」という言葉を9回も使っているからです。いずれの場合も「走る」はパウロにとって信仰の姿勢を表現する重要な言葉です。

 

1,走る姿が信仰の生き方に

どうしてパウロは信仰の姿勢を「走る」と表現したのでしょうか?それは終わりの日が近いという信仰を生きていたからです。初代の教会の信仰者は天に昇られたイエス・キリストが再び来られるという再臨への信仰に生きていました。「兄弟たち、その時と時期については、盗人が夜やってくるように、主の日は来るということです」(テサロニケの信徒への手紙二、5:1)
彼らは主の日が突然来るのを信じつつ礼拝のたびに「マラナタ(主よ、来たりませ)」との祈りを唱えていたのです。井上良雄という神学者はカール・バルトに大きな影響を与えたブルームハルトというドイツの牧師父子の生涯を描いた本の中で彼らの信仰の姿勢を「待ちつつ、急ぎつつ」と表現しました。パウロ的に言えば「待ちつつ、走りつつ」と言えるでしょうか。

東北地方のある小学校で毎年クラス対抗の徒競走がありました。男女に分かれクラスの全員がグランドを一周します。そして早くゴールした子どもから一番、二番、三番との入賞の番号が付けられます。あるクラスの番になりました。10名余りの男子全員がスタートとします。早い子はすぐに前方を走り、遅い子は遅れて走っています。ところでそのクラスに少し体の不自由な子どもがいました。その子も一緒にスタートしたのですが、次第に遅れ始め、途中からは一番最後を走っていました。先頭の子はすでにゴールの間近まで到達し、最後の子は半周遅れで走っています。勝負はすでについていました。

 

2,待ちつつ、走りつつ

その時、先頭を走っていた子どもはゴールの手前10メートルほどの所で止まって足ふみをしだしたのです。二番目に走っていた子どもその隣で、そして後の続く子どもたちも次々と同じところで足ふみをします。最後に遅れてきた子どもがそこに到着すると、なんと一斉に横になって手をつなぎ、そのままゴールに向かったのです。そして、ゴールの手前に来ると「せいの~」の大きな掛け声で全員が一緒にゴールを飛び越えたのです。見物していた人たちからは大きな歓声と拍手とが起こりました。
オリンピックをはじめとする競技や競争は金・銀・銅という順序を付けてその勝利をたたえます。しかし、あの子どもたちは順序を付けるために競走をしたのではないのです。一緒に走るということにより大きな意味を感じていたのです。それは私たちの信仰の姿にも言えることです。私たちの信仰に一着や二着はありません。いやむしろ「先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる」という逆転が起こるのが信仰です。

今回のオリンピックの競技でも勝者は栄誉を与えられ、敗者は記録も記憶も残らないでしょう。しかし、もしたとえば400メートル競走の決勝で、先頭を走っていたランナーがゴールの手前で突然足ふみをはじめ、後に続くランナーも先頭のランナーと一緒に足ぶみを行い、最後に全員が並んでゴールを超えたとしたら、オリンピックはきっと変わるでしょう、いや世界が変わるに違いないと思うのですが。パラリンピックに期待しています。パラレルとは「並行」という意味ですから。

 

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