2021年2月21日(日)礼拝式次第と説教 「神の言葉で生きる」

2021年2月21日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2021 年 2月 21 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞     詩編91編1-2節
讃 美 歌    10-1節 〝今こそ人みな〟
交読詩 編   詩編86編1-4節
祈 祷
讃 美 歌    51-1節 〝愛するイェスよ〟
聖 書     マタイによる福音書4章1-11節(新約4頁)
説 教     『神の言葉で生きる』 牧師 願念 望
讃 美 歌    54-1節 〝聖霊みちびく神のことばは〟
信仰告 白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2021年2月21日(日) マタイによる福音書4:1-11
「神の言葉で生きる」              牧師  願念 望

主イエスは、私どもが何によって生きるかということを、はっきりと語ってくださいました。どのような場面でかと言いますと、それは誘惑を悪しき者、悪魔から受けておられたときのことです。
悪魔は、告発者、中傷する者という意味があります。悪魔は主イエスが40日間断食され空腹を覚えられたとき、
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」 と言って誘惑したのです。石をパンに変える力を持っておられることを悪魔も認めていたのかもしれません。しかし主イエスはその力をご自分のために使われませんでした。また私どもには、いわゆる奇跡を期待する弱さがあります。主は奇跡を起こして人々を驚かせ、救い主であることを示そうとはなさらなかったのです。
主イエスは私どもの一人となってくださいました。そして私どもに代わって誘惑を受けられ、その戦いに勝利されたのです。御言葉によって誘惑に勝利する道を示されました。主イエスは語りかけられます。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(4)

私どもは、毎日食事を必要とします。しかし食べる糧だけでなく、魂の糧である御言葉にどれほど飢え渇いているでしょうか。御言葉への空腹を覚えているかを考えさせられます。自分で気づけるところはわずかであるかもしれません。むしろ、主によって働きかけていただいてこそ、私どもは御言葉に飢え渇いて求めていくのではないでしょうか。礼拝こそは、御言葉への空腹が与えられ、そして満たされるときであります。

主イエスはひたすら弟子たちを育て、福音を宣べ伝えられた。そして礼拝の恵みに生きる人々、救いに生きる人々を生み出し、教会を導いていかれたのです。そして地の塩、世の光として教会を用いて、世を動かしていかれたのです。
国分寺教会は、キリストの教会であり礼拝共同体です。私どもが礼拝共同体として生きることは、礼拝で主イエス・キリストの御言葉に養われ、主の和解の福音に導かれて自らも和解の使者となり、礼拝の喜びを持ち運んでいくことです。礼拝には、この世を照らす光、地の塩として生きる恵みが備えられているのです。
主イエスが受けられたもう一つの試練、誘惑は、悪魔が聖書の御言葉を用いたものです。これはとても巧妙なものです。御言葉にこう書いてあるからそうしたらどうだ、と誘ったのです。
「あなたの足が石に打ち当たることのないように天使たちは手であなたを支える。」と書いてあるから、神殿の屋根から飛びおりたらどうだ、と誘惑しました。
先ほど申しましたように、奇跡を起こして人々に救い主であることを示すことを、主イエスは拒否されました。それと共に、御言葉を間違って身勝手に用いてはならないことを示されたのです。
「あなたの神である主を試してはならない」と。
私どもも、主を試してはならないのです。自分勝手に御言葉を用いることはできないのです。むしろ、ひたすらに主に仕えて生きるのです。

悪魔のもう一つの誘惑は、権力と繁栄の誘惑です。
悪魔は「すべての国々とその繁栄ぶりを見せて」「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言っています。しかし、ほんとうのことなのだろうかと疑問になります。悪しきことに源を持った権力と繁栄であるとすれば、それは主なる神から出たものではないのです。いつまでも続かないのです。
このとき主イエス・キリストは、ただ御言葉を語られました。主がすべてを治めておられることを示されました。
「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」

主イエス・キリストは、ひたすらに父なる神に仕えていかれました。十字架の死に至るまでです。先週の水曜日からレントのときを過ごして主の復活を祝うイースターに備えています。この箇所は十字架への道につながっています。「ただ主に仕えよ」との御言葉に徹底的に従われたのです。十字架の上で主イエスは、神の子なら十字架から降りてきたらどうだ、との罵声をお受けになった。しかし主は、十字架のお苦しみを振り払うことなく、命を献げられました。私どもに代わって神の審きを身に受けられた。私どもが救いに生きるためです。

主イエスの救いによって、私どもは神の口から出る一つ一つの御言葉に生きるのです。主の救いによって、私どもは神である主を拝み、ただ主に仕える者とされ続けます。主はその恵みの中で、私どもをしっかりと守り、その御手で支えてくださるのです。命の糧である御言葉によって支えられ、共に主に仕えていきましょう。

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