2021年1月24日(日)礼拝式次第と説教 「光が射し込んだ」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2021 年 1 月 24 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    イザヤ書9章1節 司 式 者
讃 美 歌   113-1節 〝いかに幸いな人〟
交読詩 編  詩編34 編9-15節
祈 祷
讃 美 歌   132-1節 〝涸れた谷間に野の鹿が〟
聖 書    マタイによる福音書4章12-17節(新約5頁)
説 教    『光が射し込んだ』 牧師 願念 望
讃 美 歌   493-1節 〝いつくしみ深い〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2021年1月24日(日)マタイによる福音書4:12-17
「光が射し込んだ」              牧師  願念 望

マタイが福音書を書いたとき、「光が射し込んだ」というイザヤの預言が自分たちの中に実現したと喜びを伝えました。マタイの時代からすれば何百年も前に、かつて預言者イザヤが伝えた神の出来事が、主イエス・キリストによって成就したというのです。
光を必要としているのは、暗いところにいるときです。マタイは自分たちは神の光を必要としている、照らされるべき者だと自覚していました。闇を抱えているということです。神の救いに照らされて、闇を光に変えていただく必要があるということです。マタイや初代教会の者たちは、主なる神がご覧になるなら、「暗闇に住む民」だとよくわかって、「主イエスという「光が射し込んだ」喜びを生きて、伝えたのです。代々の教会はその喜びを受け継いできました。私どもも、その喜びにつながって生きるよう招かれているのです。

「暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(16)
この預言の言葉をイザヤが伝えたとき、旧約の民はどんな状況だったのか。それは、自分たちの国を失った深い絶望の中にあったのです。主イエスが神の福音を宣べ伝え始められたガリラヤは、かつて、大国のアッシリアに滅ぼされて、異国の領土になっていた。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたのはそのためです。またガリラヤのことを「ゼブルンの地とナフタリの地」とありますが、これはかつてイスラエルの12部族の名前で呼ばれていた地ということですが、大国に支配され異民族が移住してきて結婚がなされた。民族の純粋性が失われたと思われた。宗教的な乱れも起こっていったのです。
そのような中で、「湖沿い」というのはガリラヤ湖のことですが、南のエルサレムを中心とする者たちからは、辺境の「ヨルダン川のかなたの地」ですし、純粋さを失った「異邦人のガリラヤ」だったのです。

エルサレムを中心とする者たちは、自分たちこそがふさわしく神の信仰を受け継いでいると確信していました。そして、北の外れの者たちにではなく、自分たちのところに救い主が光をもたらし、救いを実現してくれると思っていた。その期待は、軍隊を率いてローマの国から解放してくれる英雄としての救い主でした。その期待から主イエスは退かれたのです。マタイは神の御心が人の思いを超えたところにあることを記しました。
主イエスがカファルナウムに移り住まわれたとき、当時の中心的な人々は、北の「ガリラヤ」の人々を「暗闇に住む民」「死の陰に住む者」と見なしていたかもしれない。それほど、さげすんでいたということです。しかし神に照らされる必要があることには変わりがないのです。

この度の感染症のワクチンに関するニュースが飛び交っています。早く行き渡って安心した暮らしが戻ることを願っています。しかしもう一方で、こんなことも考えます。南アメリカの農村地に宣教師として遣わされている友人の仲間にはいつ届くのだろうか、いつかアジア学院の留学生が家に泊まってくれたけれども、彼のアフリカの仲間にはどうなのか。危機的な状況の中では、経済的に豊かな者たちが多くのものを手に入れるという、普段抱えている不均衡がもっとあらわになるのです。
イザヤの時代も国を失うような危機にありました。マタイ福音書が記された当時も、エルサレムが陥落して国が再び滅んでしまう絶望の中にありました。
しかしマタイが伝えたことは、いかなる時であっても、神が近づいてきてくださっている。どんな闇であっても光をもたらすことができるお方がおられるということです。「天の国は近づいた」と主イエスは言われました。「天の国」とは、神が支配なさるところです。ですから「天の国は近づいた」というのは、主なる神が近づき、共に光として生きてくださるということでもあります。

主イエスは「悔い改めよ。」(17)と語りかけられました。この言葉は、当時の人々に向かってだけの言葉ではないのです。代々にわたって、すべての民に向かって、主は招いて語っておられるのです。
悔い改める、というのは光である神の方へと向きを変えるということです。闇を抱えている自覚のないところでは、光を必要としないでしょう。むしろ、主なる神という光を知るところでこそ、私どもは闇を知り、神とずれている罪を知る続けていくのです。

主イエスはガリラヤに退かれる直前に、華々しく奇跡を行う誘惑を受けておられます。そして「人は、・・・神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4)と語りかけられました。神の光が射し込む礼拝を通して、主の御言葉の光に照らされ続けていきたい。主の御言葉によって、神の光が射し込んでくることの喜びに生きていきましょう。

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