2020年8月23日(日)礼拝式次第と説教 「うるおされるように」

2020年8月23日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年8月23日(日)10時30分
聖霊降臨節第 13主日礼拝
司式   牧師 願念 望
奏楽  三宅さやか
前 奏
招 詞     イザヤ書58章11節
讃美歌    17-1節   〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編  詩編65編10-14節
祈 祷
讃美歌    141-1節 〝主よ、わが助けよ〟
聖 書     ヨハネによる福音書 7章37-39節(新約179頁)
説 教     『うるおされるように』    牧師 願念 望
讃美歌     404-1節 〝あまつましみず〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年8月23日(日)「うるおされるように」
ヨハネによる福音書7:37-39          牧師 願念 望

ある日のこと、主イエスは立ち上がって、しかも大声で言われました。いかに重要な、なくてはならない語りかけかが分かります。その日は、ある祭りが最も盛大に祝われる終わりの日でした。なぜ立ち上がって大声で主イエスは言われたのでしょうか。ヨハネは、そこにいた人々だけでなく、すべての者たちへの、私どもへの主イエスの語りかけとして記しています。
人々が大勢集まっていた祭りは、何を記念したかというと、旧約の民が、かつて奴隷であったエジプトを出て荒れ野で旅をしていたときに、主なる神によって水が与えられて渇きを満たされ、助けられて生きることができたことを思い起こしていく祭りです。その終わりの日には、黄金のひしゃくで神殿の礼拝において水が注がれる儀式が行われた。その荘厳さ、盛大な様に人々は心を奪われて、主なる神に飢え渇いていくという、最も根本的なところからずれていたのではないか。しかし、私どもはどうでしょうか。

私どもはマスクをつけることに、否が応でもすっかりなれてきたように思います。ご存じの方もおられると思いますが、テレビのニュースで、マスクをつけていると口の中がうるおっておるので、のどが渇かずに、知らないうちに脱水症状になるというのです。
思い起こすことがあります。大学2年生のときですが、はじめて海外に行きました。夏休み中に、東アジアのキリスト者の学生大会に参加するためにタイに行きました。日本からも10数人が参加しましたが、300人ほどが集まる礼拝で英語で説教がなされました。なかなか聞き取れなかったのですが、はっきりと分かるところがありました。説教者は問いかけました。私たちは、暑くてのどが渇いたらコカコーラを飲むことがあります。水分を補給します。しかし、コカコーラ以上に、神に対して飢え渇いていますか、と。とても心に響きました。初めて会う、アジアの仲間と会話したりして大勢の人に心が躍っていましたが、肝心の神様に対して飢え渇いて祈ってるかと思うと、悔い改めました。
私どもはどのように自らの心の渇き、主なる神への渇きを自覚するのでしょうか。知らないうちに、ほかのものでうるおっていて、主なる神への渇きを自覚できていないことがあるのではないでしょうか。

主イエスは立ち上がって大声で語りかけられました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」私どもは主イエス・キリストの語りかけによってこそ、渇きを知るのです。自分は渇いているか、神に対して渇きを自覚しているかと心配する必要はないのです。主イエスの言葉は、神の言葉、神の愛の語りかけです。「渇いている人は」という主イエスの言葉によって、私どもは神に対する渇きを知らされるのです。しかも、「だれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と言われる。神のもとへ行くべきふさわしさや功績を見いだせなくても、むしろそうであるからこそ、「だれでも」主イエスによって、うるおされることができるのです。
私どもには魂の渇きがあります。私ども自身の最も深いところで、主なる神にしか、主イエスにしか満たすことができないところがあります。救いのうるおいと言っていいかもしれません。ヨハネは救いのうるおいは、主イエスが栄光を受けられたあとに与えられるようになったと言います。主イエスが栄光を受けられたのは、主の十字架によってです。
十字架のうえに私どもに代わって裁かれたことは、そこに神の愛があらわされ、神の栄光を受けておられる。主イエスのもとに行くときに、主が私どもの救いのために命を献げられたことを、それほどに私どもをひとりひとりかけがえのない者として愛してくださっていることを忘れてはならないのです。しかも「だれでも・・・わたしのところに来て飲みなさい」と言われる主イエスは、すべての人を招いておられるのです。しかも、私どもを用いて、主の救いのうるおいをもたらそうとしておられるのです。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(38)私どもが神によって渇きを知り、うるおされていくことは、私ども自身のためであると共に、まわりにいる人のためでもある。礼拝に集うことは、自分のためでありますが、同時に、主が愛しておられるひとりひとりのためでもある。
私どもの内から川となるような流れを自覚できなくてもいいのです。ヨハネは主イエスの言葉を記したときに、およそ2千年にわたってその流れが途絶えることなく世界に及んでいくことを、まったく自覚も想像もできなかったのです。
大切なことは、川の流れの源である、主イエス・キリストを信じて信頼していくことです。礼拝において、またそれぞれの生活の場で、自らの救いのために祈ると共に、だれかもうひとりでもほかの人のために、その人のことを神が愛しておられることを信じて祈る、そのことは、ひとしずくのようですが、主イエスが集めて川としてくださるのです。

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