2020年11月15日(日)礼拝式次第と説教「憎しみから祈りへ」

2020年11月15日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2020 年 11 月 15 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞    詩編121編1b-2節
讃 美 歌   288-1節 〝恵みにかがやき〟
交読詩編   詩編71編 1-8 節
祈 祷
讃 美 歌        434-1節 〝主よ、みもとに〟
聖 書            マタイによる福音書5章38-48節(新約8頁)
説 教           『憎しみから祈りへ』 牧師 願念 望
讃 美 歌        394-1節 〝信仰うけつぎ〟
信仰告 白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
報 告

説教 2020年11月15日(日)マタイ5:38-48
「憎しみから祈りへ」              牧師 願念 望

「目には目を、歯には歯を」という言葉を、お聞きになったことがあるかもしれません。元々は旧約聖書にある言葉ですが(レビ24:19-20、出エジプト21:24-25)、本来の意味合いを失って、ひとり歩きしているように思われます。やられたらやり返せという意味で「目には目を、歯には歯を」という言葉が用いられているように思います。
しかし改めて読み返しますと、元々は、やられたらやり返せという復習の掟ではないのです。誰かを傷つけたら同じようにされて償うようにという、償いの掟の中で語られたのです。むしろそのようなことにならないように戒められていると理解すべきです。積極的に復讐を促しているのではないのです。

旧約聖書は、注意して読む必要があるのですが、「目には目を、歯には歯を」という、一見、復讐を促しているように誤解されやすい言葉があると、必ずその正反対のような教えもあって、バランスを取っているのです。
例えば、明らかに「復讐してはならない」と命じている箇所もあるのです。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ19:18)

「復讐してはならない」と「目には目を、歯には歯を」という掟は、互いに相容れないように思いますが、相手を傷つけてしまったときは、同じようにされて償うようにという意味で「目には目を、歯には歯を」だったと理解すれば、それは「復讐してはならない」という教えにつながってくるのではないでしょうか。

主イエスは、「復讐してはならない」という神の言葉を生き抜いていかれました。そして、こう命じられました。「だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(39)この言葉を初めて読んだとき、衝撃を受けました。そんなことはできるわけがないと思いました。
しかし主イエスの生涯を思いますときに、右の頬を打たれたら左の頬をも向けることを、はるかに超えていかれたのです。

今日の箇所は、山上の説教と呼ばれる、主イエスの説教、愛の語りかけの一部ですが、その中に、主イエスの思いと歩みを映し出すような言葉があります。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(44)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」おそらく弟子たちも、最初はつまづきを覚えるほどであったでしょう。しかし主イエスが文字通り、その御言葉を生きて見せてくださったときに、彼らも分かったのではないか。
憎しみに憎しみで返すのではなく、かえってその敵意を抱いてくる者のために祈るということです。私どもには到底できないかもしれませんが、主イエスがそれをなさったのです。主イエスがそうなさったように、憎しみや呪いを祝福に変えて、愛をもって祈っていくところに、神の御心があるのです。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」この御言葉を語りかけてくださった主イエスを信じていくときに、私どもも主イエスが裏切る者のためにも祈られた祈りに、連なって祈ることができるのです。
十二弟子の一人で、イスカリオテのユダが裏切り離れ去ろうとしたとき、主イエスは「友よ」(26:50)と呼びかけられ、最後まで愛しぬかれました。最後の晩餐の席で、食事の後、弟子たちの足を洗っていかれた。ユダの足をも洗われ、わたしに倣って互いに愛し合うようにと命じられました。
十字架の上で、御自身を十字架にかけた者たちのために祈られた。神の子なら自分を救ってみろ、とあざける人々のために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)敵対する者を心から愛し、迫害する者たちのために、神の赦しを祈られた。そこに、神の愛が輝いているのです。

初代教会の者たちは、迫害に次ぐ迫害の中を生きていきました。いつ終わるかもしれない迫害に対して復讐に生きるのではなく、祈りに生きていった。愛をもって祈りつつ、教会は信仰を継承していきました。愛をもって祈ることができたのは、主イエス・キリストが、敵をも愛する祈りを共に祈ってくださったからです。主イエスが私どもの祈りを支えてくださる。主はわたしと一緒に祈ろうと招いてくださる。私どもも、主の愛をもって祈ることができるのです。

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