主の平安とお支えをお祈りしています。
日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年7月19日(日)10時30分
聖霊降臨節第 8主日礼拝
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野美和子
前 奏
招 詞 マタイによる福音書11章28節
讃美歌 17-1節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編 詩編96編 1-3節
祈 祷
讃美歌 210-1節 〝来る朝ごとに〟
聖 書 ヨハネによる福音書5章1-18節(新約171頁)
説 教 『今も主は働かれる』 牧師 願念 望
讃美歌 518-1節 〝主にありてぞ〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年7月19日(日)「今も主は働かれる」
ヨハネによる福音書5:1-18 牧師 願念 望
聖書を読んでいると、不思議に思う言葉に出会います。たとえば今日の箇所では、主イエスが「良くなりたいか」と問うておられる言葉がそうです。38年間も病気で苦しんでいる人に「良くなりたいか」とわざわざ問うておられるのです。当然そう願っているはずだと思ってしまいます。しかし、果たしてそうでしょうか。
38年間も何も変わらないばかりか、かえって少しずつ悪くなっていたかもしれない中で、なお祈って神に願うことは当然なことでしょうか。むしろ、あきらめかけていくのが自然ではないでしょうか。私どもも、何年も事態が変わらず、良くなる兆しが見えないとき、祈りを失いかけていくことがある。そのようなとき、主イエスはあえて「良くなりたいか」と私どもを呼び覚ましてくださるのです。
「良くなりたいか」と語りかけられたひとりの人は、誰にも訴えられない思いを告白しました。「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」(7)当時、迷信と言うべきですが、「ベトザタ」の池の水面が動くとき、それは天使が舞い降りてきていると考えられたようですが、まっ先に水に入ると癒されるとされていた。実際に癒された人がいたかもしれません。この池は発掘されて、北と南の池に分かれていて、少し高い北の池から南の池をつなぐ隠れた水路があったようです。その水路を水が流れて水面が動いたのではないかという説がありますが、ヨハネはそこには興味がない。この人は誰からも見放されたような孤独の中にいたのです。
自分のような者は、と自分を卑下することは罪を犯すことです。なぜなら主なる神は、私どもの誰一人失われることのないように願って、「良くなりたいか」と問うて、祈りに導いてくださるからです。
ベトザタの池は、祭りが行われていた神殿からは離れた、町外れにありました。ベトザタは、伝統的に愛の家、憐れみの家という意味と理解されています。しかしその実情は、いつくしみに満ちているどころか、全くその逆で、水が動いた後の一番手をねらう、争いの場になっていた。祈りに生きてはいなかった。また、礼拝の場である神殿で、この池の人々のために祈られていたとは考えにくい。ですから、神殿の礼拝も神の愛に生きていたとは言いがたい。そのようなただ中に、主イエスは来てくださったのです。
「起き上がりなさい」と主イエスが語りかけられます。ひとりの人は床を取り上げて歩き、その床を担ぎました。まことに喜ばしい出来事です。しかしまわりの人々、神殿の礼拝を終えて出てきた人々と思われますが、安息日(すなわち礼拝の日)に、床を担いで歩くのは掟で禁じられていると厳しく忠告します。重いものを担ぐことは、安息の掟を破る労働に当たると考えられて禁じていた。そのとき彼は、私を癒してくれた人がそうするようにと言われたからだと返答します。あとでそれがイエスだとわかったユダヤ人たちは指導者たちを中心に、掟をやぶるイエスを殺そうとたくらむようになっていくのです。
いままで培ってきたことや人がつくった掟にしばられると、神の愛からはズレて、祈りを忘れ、礼拝の命を失って、救い主でさえ亡き者にしようとする。悲しいことですが、人の罪深さがここに記されています。掟や経験に生きて、主なる神の愛を見失うことは、私どもには関係がないこととは言えるでしょうか。主イエスは私どもにも、神の愛を見失うことなく、主を見上げて生きるように、「起き上がりなさい」と語りかけてくださるのです。
いやされたひとりの人は、おそらく祭りの会場である神殿に行っていた。そこで再び出会われた主イエスは御言葉を語られます。「もう罪を犯してはならない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」すぐには理解できないような言葉です。主イエスはヨハネ福音書の別のところ(9章)で、明らかに、病気と罪の因果関係を否定しておられます。むしろ神の栄光があらわされるためだと言われた。主イエスが神殿にいたこの人に何を語っておられたのかは、ある意味で明らかなことです。
それは、主イエスの救いの命のもとに来るように招いておられるということです。実はこの人は礼拝の場である神殿にいたのですが、信仰を言い表す言葉はこの箇所の中にはないのです。この時点では癒されたことに終わっている。もちろん、このあとどうなったかはわかりません。むしろあえて記さずに、私どもへの問いかけ、招きとなっているのです。
主イエスは、父なる神と等しい、救い主であるご自身のもとに来て、信仰を抱き、祈り願うことを忘れないように招いておられる。「起き上がりなさい」と言われた、その「起き上がる」という言葉は、復活するという意味でも用いられます。
人にはどうしようもない死からよみがえられた主イエスは、その復活の命をもって「起き上がりなさい」と語りかけてくださる。私どもが神の愛に生きて祈るように招いてくださる。そのように働きかけてくださるのです。あきらめて祈ることをやめてはならない。また祭りの外にいるような方のために、この礼拝に来られない方たちのためにこそ祈るように招いてくださっている。それは、主が今もなお働きかけておられるからです。主は私どもの教会が、掟の家ではなく、愛の家、祈りの家となりつづけるよう働きかけてくださっているのです。主の愛の働きかけを信じて、祈りつつ従ってまいりましょう。