2021年10月31日(日)礼拝式次第と説教 「どこにいるのか」

 

10月より、教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

降臨前第8主日礼拝
2021 年 10月 31日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞     イザヤ書43章1節
讃 美 歌   14-3節 〝たたえよ、主なるわれらの神を〟
交読詩編     詩編51編3-11節
祈 祷
讃 美 歌   377-2節 〝神はわが砦〟
聖 書    創世記3章1-24節(旧約3頁)
ヨハネによる福音書3章16-21節(新約167頁)
説 教    『どこにいるのか』  牧師 小林 恵
讃 美 歌   441-2節 〝信仰をもて〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2021年10月31日(日)
「どこにいるのか」    牧師 小林 恵
創世記3章1-24節
ヨハネによる福音書3章16-21節

 

■“自分さがし”?

よく“自分さがしの旅”と言われます。実際に旅をするかどうかは別として、実はとても大切なことではないかと思います。“さがす”のは、何かが失われたり、必要とされていたりするからで、その何かとは、まさしく自分という“人間”のことだからです。自分をさがすとは、自分が“どこにいるのか”を見出していくことであると言えます。

もっとも、“自分さがし”には大きな矛盾があります。それは、自分をさがすことは、自分ではできないからです。失くしたボールベンをさがすのは、ボールペンではなく、それをなくした持ち主です。同じように、人間は本来、自分で自分自身をさがすことはできないのです。それができるのは、言うなれば人間を造った“所有者”であると言えます。

 

 

■どこにいるのか?

人間の創造主なる神こそが、人間をさがし出し、見出してくださる方です。創世記3章の蛇の誘惑の中で、神はアダムに呼びかけています。「どこにいるのか」(9節)と。私たち人間は、どこにいるのでしょうか。どこに生きるのでしょうか。3つの視点から見ていきましょう。

 

 

①神はかえりみられている

まず、私たちのいるところ、私たちの人生は、いつも神にかえりみられています。
「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8節)。
「風」は「霊」とも訳せる言葉で、霊をもって園の中を歩いておられた神は「どこにいるのか」とアダムを呼ばれます。神は、アダムがどこにいるのか分からなかったのではありません。むしろ、すべての事をご存知である神が、アダムに語りかけているのです。神は人間に思いを寄せ、向き合ってくださいます。人間がいつ、どこにあっても、神は聖霊によって共におられ、共に歩まれ、人間の歩みに関わってくださるのです。

 

 

②罪に生きる人間の弱さ

次に「どこにいるのか」と神が問われているのは、罪に生きる人間の弱さです。神が禁じた木の実を食べてしまったアダムは、まさに罪の中にいました。「どこにいるのか」と神に呼ばれたアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(12節)と責任を転嫁しています。しかも「あなたが」と言っていることから、女(エバ)を与えた神の責任にしようとしていることがわかります。罪に生きる人間は苦境の中で、「あなたが…」と神に責任を問うてしまうのです。

しかし、そのような人間の弱さを神はすべて受けとめておられます。神は二人のために、皮の衣を作って着せました(21節)。罪に堕ちた人間が、罪を自覚して生きるようにと導く神の配慮と憐れみが、ここにあります。

 

 

③悔い改めて生きる

最後に、「どこにいるのか」と神が問われるのは、罪人たる人間が悔い改めて生きる道です。神はエバとアダムにそれぞれ裁きの言葉を与えています (16~19節)。エバには産みの苦しみについて告げられますが、新たに生まれる命の責任はアダムにもありました。一方のアダムには、土の塵をもってつくられた人間が苦労や重荷を背負って生きていくこと、そして、やがて塵として土に返っていく命のシステムが示されますが、これは言うまでもなくエバにも言えることでした。つまり二人はここで、命の重さを受けとめながら、命を生きていくという重大な使命を与えられているのです。言い換えれば、命の恵みに感謝して生きる、悔い改めの人生へと私たちは導かれているのだと言えます。

神が二人に言われた事は、人間にとって重く辛いことでもあります。けれども、聖書が告げているのは裁きの苦しみではなく、むしろ苦しみの中にこそ、神が共におられるという愛と希望のメッセージです。アダムとエバに与えられた命と人生の課題はすべて、主なるキリストが私たちと共にいて担ってくださいます。キリストが十字架と復活の恵みをもって、罪ある人間の命を引き受けてくださったゆえに、人は心から悔い改めて生きることができるのです (ヨハネ3:16~17)。

 

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