2020年10月18日(日)礼拝式次第と説教 「主は祈ってくださる」

2020年10月18日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 聖霊降臨節第21主日礼拝 2020年10月18日(日)午前10時30分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞      フィリピの信徒への手紙3 章20節
讃美歌   14-1節 〝たたえよ、王なるわれらの神よ〟
交読詩編  詩編34編 9-15節
祈 祷
讃 美 歌   54-1節 〝聖霊みちびく神のことばは〟
聖 書    ヨハネによる福音書17章13-19節(新約202頁)
説 教    『主は祈ってくださる』 牧師 願念 望
讃 美 歌   540-1節 〝主イェスにより〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2020年10月18日(日)ヨハネによる福音書17:13-19
「主は祈ってくださる」              牧師 願念 望

主イエスは祈られました。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」(13)
この祈りは、十字架を目前に控えた最後の夕食の席で、弟子たちを前に祈られたものです。おそらく弟子たちは、心の板に刻みつけるようにしてひと言も漏らさずに聞いていたでしょう。
「今、わたしはみもとに参ります。」と主イエスが祈られたのは、十字架に命を献げることを覚悟なさり、その時が来たことをはっきりと確信なさったからです。

主イエスの祈りの一部をこの朝共に聞き、思いを深めていますが、十字架を目前に控えての最後の夕食の席で、弟子たちを前に祈られたものだと言いました。
最後の夕食の後、主イエスがどうなさったか、覚えておられる方もあると思います。主イエスは、上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗われました。そのことは、当時、奴隷がすることでした。しかし、罪なき主イエスが十字架におかかりになって、私どもが受けるべき神の審きをその身に負ってくださることは、主が弟子たちの足を洗われるよりも、もっとあり得ないことでした。
主イエスは祈られました。「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」主イエス・キリストは、十字架へと歩み抜かれる中で、喜びに生きておられた。それは、愛する父なる神の御心に従う喜びですし、弟子たちを愛する喜びです。弟子たちを愛し抜かれた中で、その足を心を込めて洗われたことは、互いに仕えて愛し合うことを、神の赦しに生きることを、身をもって示されるためでもありました。

弟子たちの足を洗われたあとに、主イエスは語りかけられます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13:34、35) 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語りかけて、とても主イエスがなさったようにできないと考えるでしょうか。ある意味で、主なる神である主イエスのように、だれも愛することはできないかもしれない。しかし、弟子たちを動かしていったのは、主イエスの愛でありました。主イエスに愛され救われた者は、主イエスのあり得ない愛、神の愛に動かされて、互いに仕え合い、愛し合う喜びに生きていった。私どもは、主イエスの愛に近づき続け、主イエスを愛し、互いに愛し合うことが赦されている。それは、およそ人を出発点にしてはできないことですが、主イエスをはじまりとして教会は歩み続けてきたのです。主イエスが愛されたように、互いに愛して仕え合うことに教会の姿があります。
主イエスが言われた、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」ことに、教会の姿があります。主イエスは、十字架におかかりになる前に、すでに教会を建て上げておられるのです。
主イエスの福音を教会は、その御言葉と共に、主イエスの愛を生きることによって、世に伝えてきました。これはとても大切な、教会の命に関わることですが、主イエスからいただいた愛をもって、私どもが互いに愛し合うことによって、ここに主が共におられることが伝わっていくのです。主イエスの愛に生きることを祈り求める中で、私どもはかえって自らの愛のなさ、乏しさを知り、罪を告白して、生涯を通して悔い改めに生きるのです。しかしそれは、主イエスをはじまりとする喜びに生きることです。喜びに生きる道を主イエスは命を献げて備えてくださいました。

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(17)「聖なる者」とは、特別な弟子のことではありません。主イエスを信じて生きるキリスト者すべてを指して用いられているのです。「聖なる者」とは、神のために取り分けられた者という意味があります。神のものとされたということです。神のものとされた者は、神から出ていない、世にあるものによっては支配されず、神から与えられた救い、喜びは世にあるいかなるものも奪うことはできないということです。主イエスは、聖なる者は世に属していないと言われた。それは、主イエスのところに、信じる私どもも同じようにおらせてくださるということです。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」そう祈られた主イエスは教会に、礼拝の喜びを与えてくださいました。主の御言葉を聞くことは、本来、独り子である主イエス・キリストにふさわしいことです。しかし、神の深い御心により、礼拝で共に主の御言葉を聞く喜びは、主の愛に生きて、互いに愛しあう歩みを先へと進ませ続けていくのです。

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