2021年4月18日(日)礼拝式次第と説教 「ここはどこ、わたしはだれ? 〜いま原点に立つ」

2021年4月18日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 4月 18 日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    イザヤ書65章1節
讃 美 歌   16-5節 〝われらの主こそは〟
交読詩     詩編93編
祈 祷
讃 美 歌    393-1節 〝こころを一つに〟
聖 書     ヨハネによる福音書15章5節(新約198頁)
説 教    『ここはどこ、わたしはだれ? 〜いま原点に立つ』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌    390-1節 〝主は教会の基となり〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

説教 2021年4月18日(日)
「ここはどこ、わたしはだれ? 〜いま原点に立つ」    牧師 上林 順一郎
ヨハネによる福音書15章5節

 

Ⅰ、イースターの朝、国分寺教会を訪れた時、入り口の看板に「コミュニティ・チャーチ」と書いてあるのが目に留まりました。「コミュニティ・チャーチ」?その夜、家に帰って「国分寺教会50年史」を読みました。そこには国分寺教会は最初から「地域社会と共に、その課題に仕える、開かれた教会を志した」と記されていました。

戦後、開拓伝道によって各地に多くの教会が生まれました。国分寺教会もその一つです。しかし、戦後間もない頃は教会を建てる資財もなく、人々の生活も貧しく、開拓伝道は困難の多いものでした。しかしその分、教会員の夢と希望とが教会を支えていました。「コミュニティ・チャーチ」を目指した国分寺教会はこの地域(コミュニティ)のために存在し、この地域の人々に仕えていくという強い希望と熱き使命とが困難を乗り越え、教会を生んだのだと理解できました。

 

 

Ⅱ、さて、本日の聖書の個所でイエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われました。聖書の中でもよく知られた言葉ですが、この言葉の背後には旧約聖書のイザヤ書5章があります。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」と、イスラエルを神はぶどう園であるとたとえているのです。

イエスが「わたしはぶどうの木」と言われた時、このぶどう畑とはイスラエルのことではなく、イエスの群れ、主の教会のことなのです。なぜ、イエスは教会を「ぶどう畑」と見なされたのでしょうか?ぶどうの木は実を作るために上に高く伸びることをしないで、横に広がっていきます。わたしたちの身の丈ぐらいの低さで横へ横へと広がり育つのです。

このぶどうの木と対照的なのが、イスラエルの北方に育っている「レバノン杉」とよばれる木です。レバノン杉の幹は太く高く伸びていきます。その幹は建築の材料として貴重なものでした。その昔、ソロモン王はエルサレムに自分のための宮殿を立てた時、多くのレバノン杉を切り倒し、豪華な王宮を建てました。人々は天に向かって高く伸びていくレバノンの木に権力と権勢を示すシンボルを見たのです。

しかし預言者エレミヤはこう語ります(22:14)「ユダの王は言う、『自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう』と。彼は窓を大きく開け、レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。あなたはレバノン杉を多く得れば立派な王だと思うのか。あなたの父は質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。その頃、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ人々は幸いであった」

これは紀元前7世紀に宗教改革を行ったヨシュア王の息子エホアハズに向かって語った言葉です。これはレバノン杉を使った豪勢な宮殿にではなく、ソロモンの建てた豪華な神殿に対する批判でもあったのです。

 

 

Ⅲ、イエスはエルサレムに入場した後、ヘロデの建てたエルサレムの豪華な神殿に向かって「三日の後に壊れるであろう」と預言されました。一方、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝」と語られたのです。天に向かって高く造られた神殿ではなく、人の背丈と同じ高さで横に向かって広がっていくぶどう木の畑の姿に新しい信仰の共同体の姿を見ていたのです。それが神の宮である新しいぶどう畑、教会の姿なのです。

コミュニティという言葉は、「コンムーニス」というラテン語から来ています。「共有とか共同」と言う意味で、コミュニケーションの語源です。教会では聖餐式のことをホーリー・コミュニオンと言いますが、聖餐式はキリストの体と血とを共有し、キリストと一つになると共に、貧しい兄弟姉妹や外国人たちと共に食事をする交わりであり、アガペー(愛の食卓)と呼ばれていたのです。教会とは地域の人々、特に社会において差別され、排除されている人々と共に生き、その課題を共有する神のぶどう畑としての教会を表すしるしでした。

きょうの説教題は「ここはどこ?わたしはだれ?」です。そう、ここは神が愛しておられるぶどう畑です。わたしはだれ?わたしとはぶどうの木に繋がっている小さな枝です。しかしイエスつながっているかぎり大きな実を結ぶことができる小枝なのです。

これがわたしたちの教会の原点であり、喜びであり、そしてこれからの希望となるものです。

 

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