聖書:ルカによる福音書2章8節~14節
国分寺教会 牧師 願念望
2012年12月23日
クリスマスの物語が聖書に記されています。この箇所は、その中でも特に有名な箇所です。
野原の羊飼いに最初に、救い主の誕生の知らせが届くのですが、それは、とても予想外なことでした。
羊飼い達自身は、おそらく救い主のことは知っていたでしょうし、お生まれになることは待っていたでしょう。でもまさか自分たちにその知らせが届くとは、しかも真っ先に教えられるとは夢にも思わなかったのです。
私どももそうですが、自分で自分のことをこれぐらいと思っているのと、神様が本当に大切に思っておられるのとは、ずいぶんと開きがあります。
先ほど、信仰告白式、洗礼式が執り行われました。そのために、役員会で、おひとりおひとりの思いをお聞きし て、承認する時があります。志願する思いをお聞きしますと、胸がいっぱいになりました。それをお聞きする役目にあることを本当に感謝する時であります。そ の時に与えられた胸一杯になった喜びは、この箇所にはじまっている喜びであります。
天使は、羊飼い達に「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言いました。それは神様でなくては与えるこ とができない喜びのことです。この朝は、アドベントクランツにろうそくの光が4本灯って、礼拝をささげていますが、ろうそくの光は、神様が私どもの心に灯 してくださる喜びの光を表しています。
ろうそくは火をつければいいのですが、心のともしびはそう簡単には火がついて明るくならないことがありま す。神様だけが、灯すことができる心のともしびがあるのです。天使たちは、その喜びのともしびを告げました。天使は、羊飼い達に「民全体に与えられる大き な喜びを告げる」と言いました。
天使が羊飼い達に告げた救い主のしるしは、「飼い葉桶にねむる赤ちゃん」でした。その夜、ベツレヘムで他に も生まれた赤ちゃんはいたでしょうが、羊飼い達は探し当てることができました。おそらくは他には、うまやのえさ箱に大切に寝かせられている赤ちゃんはいな かったでしょう。しかし、そこに神の栄光が輝いていました。不思議なことで、人の考えとは違うのです。王宮に生まれていたら、わずかな人しか会えなかった でしょう。もちろん、当時の人々からは、社会の片隅にいる人たちと見られていた羊飼いたちも会えなかったのです。すべての人が救い主にあえるためにそのよ うにお生まれくださったということです。本来、神の栄光は人が近づけないものなのに、誰もが近づけるようになった。救い主が与えられたからです。そこに天 からの喜びがあります。
毎年クリスマスに子どもたちが中心になって聖誕劇ページェントを演じてくれます。
羊飼いの場面はその中にも出てくるのですが、羊飼いに天使が現れた場面に、ヘンデルのメサイアやバッハのクリスマスオラトリオにも出てくる有名な讃美の言葉があります。14節です。
「いと高きところには栄光、神にあれ」
「地には平和、御心に適う人にあれ」
よくよく考えてみれば、これは天使達による讃美の歌ですから、人が考えたものではなく、まさに天からの授け られた讃美の歌です。ですから、歴史上特に、西洋の歴史ではこの歌の意味をずーっと考え、味わい続けてきました。ただ過去にそんなことがあったということ ではなくて、今の自分たちへの歌でもあると信じて味わい続けました。元々ルカの福音書も、この喜びの歌が、私どもにも与えられていると信じて記していま す。
私どもも少したちどまって、心に思い巡らしてみたいと思います。
「いと高きところには栄光、神にあれ」。この言葉を、ある時、一緒に聖書研究で学んだことがありますが、そこにいたある方も、「いと高きところには栄光、神にあれ」は分かる気がすると言いました。
神こそが、栄光を受けられるにふさわしいからです。私どもをここに存在させてくださり、出会いを与え、育んでくださる神がおられる。そのような、まことの神をほめたたえて生きることは、人にとってふさわしいことです。
天使が讃美した歌、「いと高きところには栄光、神にあれ」に続いて、
「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉があります。ある方が、この言葉が長い間、心に引っ掛かって いると言われた。それは「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10)とあるのに、「御心に適う人に」だけ神様からの平和があるように思えて、うまく 繋がらない気がしたということです。 「御心」というのは、神様の心ですが、私たちは「神様の心に適う人」でしょうか。「神様の心に適う人」というのは、 神様が「あなたはすばらしい、私はあなたを喜ぶ」と言っていただける人ということです。そう考えるとよけいに、自分は違うように思えてくる。「地には平 和、御心に適う人にあれ」という歌は、結論から言いますと、まさに私どもに向けての神様からの祝福の言葉です。しかし、私もかつてそうだったのですが、日 頃の自分のことを考えると、自分に向けての言葉だとはすぐには思えません。
私どもは、自分のことをどう思うでしょうか。
自分のことは自分でよく分かるようで、分かりません。
自分や周りにうつる姿だけでは、分からないことがあります。自分は必要とされているのだろか、と考えてつら い気持ちになったことがあるかもしれません。しかし、必要とされない人は誰もいません。まして、神様がご覧になって、必要でない人など誰もいないのです。 主なる神は、そのお心を私どもにも与えて、主イエスの喜びに生かそうとしてくださっているのです。
天使は「地には平和、御心に適う人にあれ」と讃美しました。「適う」というのは、辞書を引くと、「あてはまる」とか「望みどおりになる」という意味です。
確かに、神の御心にすべてそのまま適う人は誰もいませんね。それは神様だけです。救い主イエス様だけです。 主イエスは、うまやで小さく静かにお生まれくださったのですが、御自分が幸せになるためではなくて、救い主としてお生まれくださった。私たちに対して命を ささげて救いの道をひらいてくださったのです。私どもは、神様にとって、それほど価値ある互いだということです。
天使は「地には平和、御心に適う人にあれ」と讃美しました。「御心に適う人」というのは、神様の思いが注がれていく人、という意味があります。ですから、「地の上では、御心が注がれる人に平和があるように」とも訳せます。主なる神は、私どもにその御心を
注いでくださいます。
ですから、すべての人に与えられる救いの喜びが告げられているのです。
主イエスこそが、神の御心に適うだたひとりのお方です。御心に到底適わない私どもが、主イエスの救いによっ て罪赦され、御心を注いでいただいて、御心に適う人とされ続けるのです。御心が注がれるということは、神様が、あなたのことを喜んでおられるその御心を知 り続けるということです。自分のことだけではない、周りの共に生きる人もまた、神様が命をかけても惜しくない存在として喜んでおられるそのことを学び続け るのです。
そのような神様の御心を教えていただくときに、自分で自分を受け入れていくことができます。焦らずに自分のことをゆるしていく。あるいは、自分のことだけではない、自分の心に適わない周りの人のことを受け入れる思いが、神様から注がれていくことができるのです。
そのように、神様の光に照らされるときに、自分の心が開かれて、照らされるだけではなくて、心にともしびを 灯してくださるのです。心に喜びのともしびが与えられるのは、主イエスが救い主として、私どもを赦して心に宿ってくださるからです。救い主が私どもの光と なって宿ってくださり、自分も周りもこの世でただひとりのかけがえのない存在であることがわかってくるのです。そのように心を広くされ、共に感謝して生き るようにと主イエスは招いておられるのです。
いま灯している、ろうそくの光はやがて消えますが、私どもを照らす救い主の光は、いつまでも消えることはないのです。