2021年1月17日(日)礼拝式次第と説教 「招きの声に応える者」

2021年1月17日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2021 年 1 月 17 日(日)午前 10 時 30 分
司式 牧師 願念 望
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞    エゼキエル書3章1節
讃 美 歌   361-1節 〝この世はみな〟
交読詩 編  詩編40編 6-7節
祈 祷
讃 美 歌   402-1節 〝いともとうとき〟
聖 書    マタイによる福音書4章18-25節
説 教    『招きの声に応える者』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   512-1節 〝主よ、献げます〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

説教 2021年1月17日 マタイ4:18-25
「招きの声に応える者」            伝道師 佐藤 倫子

■イエスの召命

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった」(マタイによる福音書4章18節)。

「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが……御覧になると」(マタイによる福音書4章21節)。

最初の弟子たちの召しと、彼らの応答のこの記事の中で中心に立っているのは、イエス・キリストです。弟子たちの応答に先立って、イエスの召しがあります。しかもそのイエスの招きに先立って、イエスの眼差しが彼らの上に注がれています。それは、特別な場面ではありません。彼らの日常の具体的な働きの上に注がれているのです。弟子たちはその働きのただ中でイエスに見出され、呼びかけられました。イエスに呼びかけられることは、私たちの具体的な日常生活のただ中で起こるのです。イエスに呼びかけられ、出会う者はその同じ場所に、これまでと同じやり方で安住することは許されません。自分とは関係ないだろうと考えてはなりません。宗教改革者ルターの言葉を借りるならば、「神が自分を用いて偉大なことをなそうとしておられるのだという信仰を誰も捨ててはならない」ということなのです。

 

■弟子としての応答

このテキストが強調することは、魚が大量に捕れたことではありません。奇跡が起きたから、新しい結果が起こったのではありません。聖書が伝えているのは、この四人の弟子たち、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネが、イエスの招きに応じて、イエスに従っていったという決断とその結果なのです。イエスから呼びかけられた時に、彼らはイエスから「全生涯をかけろ」との決定的な呼びかけを受けました。そしてその呼びかけに応えた者の歩みは、当然違ったものへと変化します。教師や模範としてイエスの生涯を学ぶのではありません。イエスを通して宗教や信仰を学ぶのでもありません。ただイエス・キリストに従うことが弟子の道です。イエスの招きに対する従順以外に、信仰への道はどこにもないのです。ペトロの生涯は、イエスの二つの招きの間にありました。ガリラヤ湖のほとりで「わたしについて来なさい」と言われるイエスの招きに応じたペトロは、イエスの十字架の死と復活の後、もとの職業に戻った時、「わたしについて来なさい」と再び語られる復活の主に捕らえられます。復活の主の召しが、最初の招きを確かなものとなし、成就するのです。

 

■遣わされる

ところで、イエスに召されるということは、遣わされるということと切り離すことはできません。遣わされていくためには、まず召されることが前提となります。一方、召されるということは、それが遣わされることに結びつかない限り意味を持たないのです。イエスに召された者は、イエスと共にその憐れみのために生きる人間となります。またそのようなとらえ方で「人間をとる漁師」となります。それは、この非人間的な世界において、おびただしい情報と甘言が取り巻くこの世界で、名誉欲と物質欲に満ちあふれたこの世界で、全く驚くべき人間のとらえ方と言えるでしょう。魚が大量に捕れたことがここで大切なことなのではありません。イエスが罪ある人間を御許に召され、奉仕に定められるということ、イエスがこの人間を変え、新しい純粋な人間にしてくださるということこそ、本来の奇跡と言えるのです。

 

■招きの声に応える者

ペトロに呼びかけられたイエスは、私たちをも同じように呼びかけられます。召しはいつでも一方的であり、私たちの資質や能力によるものではありません。時に、私たちはイエスの招きに対して傍観者になったり、「私には無理だ」と聞き流してしまうことがあります。しかし、イエスの召しの前で自分がその召しにふさわしいかどうかを検討することは無意味なことです。なぜなら、私たちを召命される方は、そのような私たちの全てを知っておられる上で、私たちを召し出し、私たちに先立って進んでくださるのです。弟子たちと同じように、私たちもまた、主のあたたかい眼差しの中に招かれています。どんなに苦しいと感じる時や痛みの中にあろうとも、私たちに新しい道を示してくださっているのです。そんなイエスの招きの声に応える者として歩みたい。そしてその道のりをまだ見ぬ誰かと共に歩みたいと、そのように願います。

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