2021年2月28日(日)礼拝式次第と説教 「変えるべきこと、変わらざること」

 

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2021 年 2月 28日(日)午前 10 時 30 分
司式 牧師 願念 望
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞     イザヤ書35章5-6節
讃 美 歌    377-1節 〝神はわが砦〟
交読詩 編   詩編130編1-8節
祈 祷
讃 美 歌    403-1節 〝聞けよ、愛と真理の〟
聖 書     マタイによる福音書12章22-32節(新約22頁)
説 教     『変えるべきこと、変わらざること』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌    54-1節 〝やすかれ、わがこころよ〟
信仰告 白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

説教 2021年2月28日(日) マタイによる福音書12:22-23
「変えるべきこと、変わらざること」              伝道師 佐藤 倫子

■私たちの内に潜むもの

「差別はいけない」ということは、現代に生きる者にとって大切な事柄として教えられてきた課題です。しかし人間とはどこかで差別的な意識を抱いて生きてしまう生き物だとも思います。差別を生み出すものは理屈や論理というよりはむしろ、「皮膚感覚的な嫌悪感」ではないでしょうか。そのような「皮膚感覚的な嫌悪感」があることを認めた上で、それを乗り越える努力をすることが大切なのです。聖書の時代にも差別はありました。民族・宗教・病気や障がいによるものですが、その源にあったのも、そのような皮膚感覚的な嫌悪感だったことでしょう。重い皮膚病を患った人や、悪霊に取り憑かれた人を人々は共同体から弾き出していました。かつて私たちの社会でも、らい予防法という法律によって、合法的にハンセン病の方々を隔離する政策がとられていました。多摩全生園のことはみなさんもご存知だと思います。私たちの社会もこのような、皮膚感覚的な嫌悪感と無縁ではありません。

 

■イエスの歩んだ道

そんな人々をイエスは癒されました。多くの人々が交わろうともしなかった人たちと、イエスは進んで交わりを持ち、その体に触れて癒されました。その光景をみた周囲の人の中には、心無い言葉を投げつけた人もいたでしょう。イエスが悪霊に憑かれた人を癒されるのを見て、その人たちは言いました。「あいつはベルゼブル(蝿の王)の力で悪霊を追い出しているのだ」と。異邦人は、人が死に、その遺体に蠅がたかる光景を見て、蝿は霊を天に運ぶ役割が与えられていると考えていました。しかし清浄を好むユダヤ人は「蠅の王」を忌み嫌います。確かに死体にたかる蠅の姿は、気持ちの良いものではないかもしれません。それこそ「皮膚感覚的な嫌悪感」を抱いて、ゾッとする気分でその光景を見ていたのでしょう。その「蠅の王」にイエスがたとえられているということ。それは何を意味するのでしょうか。「汚れ」と人々が見なす病人に近づき、体を寄せ、触れる。そっとその人の隣にたたずみ、その痛みや苦しみ、涙や汚物までも受けとめて共に歩もうとされる…そんなイエスの振る舞いがこのような中傷を生み出したのです。その姿は決して「汚れ」てなどいません。むしろ私たちにとっては希望の姿なのです。

 

■変わるべきもの、変わらざるもの

イエスの時代から2000年以上経っても自分の物差しで他人との違いを勝手に計り、差別をしてしまう人の心は変わりません。ところが、イエスはそのような、私たちが作る見えない壁をいとも容易く超えられて、前に前にと進んでいかれます。なぜなら、私たちひとりひとりをそれぞれ違うものとして作られたのは神なのだから。しかし、そうして人間を愛されたイエスは十字架の上で殺されてしまいます。今、私たちはそのイエスの苦しみ・痛みを覚えて過ごす、レント(受難節)の時を過ごしています。ふと、もしイエスが今この時代に、人間として生まれられたらどうなるのか、と想像します。聖書の時代と同じように、不正を正し、差別されている人々に寄り添い、共に歩かれる方がこの時代に出てこられたら一体どうなるのか。差別をなくされたら困る人がいる。戦争が消えたら困る人がいる。この構造は、残念ながら聖書の時代から変わっていないと、私は思うのです。変わるべきもの、それは私たちの小さな心です。2000年前と今とで違うこと。それはイエスがご自分の命を献げて、私たちの罪を贖ってくださった、ということです。全ての命は神に愛されているのです。これは何よりも大きなことです。この愛を知っているのは私たち教会に繋がっている一人ひとりです。この一人ひとりが、この愛を伝え、考え、実践し続けることが求められているのです。この愛こそ変わらざるもの、神の愛です。私たちの状況がどうであろうと、私たちの気持ちがどうあろうと、神のあたたかい眼差しは変わることがありません。私たちは常にこの愛に包まれています。私たちはひとりではないのです。しかし、愛の実践は常に大きな困難と隣り合わせです。私たちの努力を鼻で笑う人たちもいます。どれだけ努力しても変わらないという諦めも、私たちの内から沸き起こってきます。それでも私たちは、愛の実践を諦めない。なぜなら、神の愛が変わらないからです。神の愛が変わらない以上、私たちが変わるしかないのです。この道のりはイエスの歩んだ道のりと重なります。変わらぬ愛に押し出されて、小さなことから少しずつ、全ての人と共に歩んでまいりましょう。

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