日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝 2021 年 4月 11 日(日)
司式 役員
奏楽 浅井 義子
前 奏
招 詞 イザヤ書55章10-11節
讃 美 歌 210-1節 〝来る朝ごとに〟
交読詩 詩編98編1-9節
祈 祷
讃 美 歌 325-1節 〝キリスト・イェスは〟
聖 書 マタイによる福音書28章11-15節(新約60頁)
説 教 『神、我らとともに』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 432-3節 〝重荷を負う者〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
説教 2021年4月11日(日)
「神、我らとともに」 伝道師 佐藤 倫子
マタイによる福音書28章11-15節
■マタイの記事
マタイによる福音書は、イエスの葬られた墓がローマの兵士たちによって見張られていた、と独自に記しています。それは、ユダヤ教の指導者である、祭司長たちや長老たちの心配から始まりました。弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、「イエスが復活した」という虚偽の噂を流さぬようにという心配から。そして、逆から考えれば、この事実を記すことにより、復活の出来事が弟子たちによるねつ造ではないことをも明らかにしようとしているのです。
■この世は復活を認めない
番兵たちは目撃したすべての出来事を、そのまま報告しました。しかし、祭司長たちや長老たちは、虚偽の噂を流されることを警戒しながら、かえって、自分たちでそれを実行したのです。
「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」
金を渡し、寝ている間に弟子たちが運び去ったと、嘘の報告をしなさいと言います。兵士にとってみれば、見張りをサボって寝ていたことは職務怠慢であり、最悪の場合、死をもってそれを償わなければなりません。簡単には首を縦に振れないでしょう。
その決意さえ、金と約束で買い取ろうというのです。責任が問われないように総督を説得する、とさえ祭司長たちや長老たちは約束しました。何の心配もなくなった兵士たちは金を受け取り、教えられたとおりに証言します。イエスの復活を無かったことにしたかった祭司長たちや長老たちの思惑と、彼らにとって恐ろしい出来事を目の当たりにした番兵たちの利害が一致した瞬間でした。
現代においても、イエスの復活に対して、どのようなことをしても認めない、というのが一般的ではないでしょうか。さまざまな理由をつけて否定しようとします。そんな非科学的なことを信じているのですか?と。したがって、イエスの復活を福音として語ることは、いつの時代もこの世との対決を迫られることになるのです。
■復活のイエスとの出会い
しかし、いかにこの世が復活を否定したとしても、イエスの復活の出来事が色あせることはありません。わたしたちは信仰を通して、イエスが共におられることを知らされています。イエスとの出会いが与えられています。
「復活のイエスに出会った人」というのは、第一義的には、あの時代、あの場所で、復活のイエスとまみえ、親しく語り合い、共に歩み共に生きた人たちのことを指すでしょう。しかし、それだけに限定されていないという、もう一つの事実があることに気づかされるのです。復活のイエスに出会い、イエスに突き動かされているすべての人は、時代を超え場所を超えて、誰もがイエスの証人とされています。その一人ひとりの「証言のリレー」があって初めて、2000年の時を超えて、今、わたしたちもまた復活のイエスに出会うことができるのです。
■神、我らと共に
マタイによる福音書は復活のイエスが昇天する場面を記しません。それは、始めから終わりまで一貫して、「イエスは人間と共におられる方であること」を強調するためです。
「『みよ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイによる福音書1章23節)
イエスの生涯はその始めから、人間と共にありました。そして、裏切りや十字架の苦しみを受けてもなお、最後までそれを貫かれるのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)
私たちは弱いものかもしれません。辛いことがあればすぐ弱音を吐き、いやなことは遠ざけたいと思ってしまいます。そういう弱い存在なのです。しかし、復活のイエスは、そのような私たち一人ひとりと共にいてくださいます。私があなたと共にいるのだから恐れることはない。イエスは苦しみ悩むもの全てにこう語りかけておられるのです。
国分寺教会は新しい1年の歩みを始めました。常に傍らにいてくださる主イエスと共に、互いに祈り合いながら、力強く新しい一歩を踏み出してまいりましょう。