2020年10月11日(日)礼拝式次第と説教 「神の栄光のため」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 聖霊降臨節第 20 主日礼拝  2020 年 10月 11 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞    イザヤ書51章11節
讃美歌   10-1節 〝今こそ人みな〟
交読詩編  詩編63編 3-9節
祈 祷
讃 美 歌   456-1節 〝わが魂を愛するイェスよ〟
証 し    神学生 蓮沼 明
聖 書    ヨハネによる福音書11章1-16節(新約188頁)
説 教     『神の栄光のため』 牧師 願念 望
讃美歌    479-1節 〝喜びは主のうちに〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
報 告

説教 2020年10月11日(日)ヨハネによる福音書11:1-16
「神の栄光のため」                牧師 願念 望

あるとき主イエスのもとに、急病の知らせが届きます。エルサレムから3キロほどのベタニア村から、はるばるヨルダンの向こう岸へと使いの者が駆けつけました。おそらく丸一日以上かかったでしょう。マルタとマリア姉妹が兄弟ラザロについて「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」(3)と伝言したのです。ラザロが病気で死にそうであってすぐにでも来てほしいということでしょう。

使いの者は、とても緊迫した思いで主イエスにお会いしたはずです。すぐにでも出発してくださると思っていたかもしれない。
私どもも、思いがけないことに直面することがあります。私もお電話で、急に入院なさった、急病の知らせを受けることがあります。そのときによく思い起こすと言いますか、心に響いて祈る主イエスの御言葉があります。それは、ラザロの使いの者に言われた御言葉です。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」(4)
「この病気は死で終わるものではない」どうか主がいやしてくだるようにと祈ります。

ラザロという名前には、おそらく当時の人々は知っていたであろう、神は助けたもうという意味があります。
11章を読み進んでいきますと、主イエスがなお二日滞在しておられる間に、ラザロは死を迎えるのです。多くの者たちが信じたその土地を、すぐには離れることができなかった状況を想像することができます。ずっとそこにいてほしい、この場を離れないでいっしょにいてもっと教えてほしいと願う思いは強かったはずです。弟子たちの中には、エルサレムで目の見えない人を癒したのをきっかけにして、当時の指導者と民衆から命を狙われるようなことになっていたので、もう当分は戻らない方がいいと考える者もいたはずです。実際、エルサレムの近郊に戻ることは、殺されるために帰るようなものでした。主の十字架への歩みは、すでに始まっていたのです。「神の栄光のためである。」十字架へと歩み抜かれて、神の栄光をお受けになる歩みは始まっているのです。

主イエスがベタニアに行かれたとき、ラザロは墓に葬られたあとでした。マルタとマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32)と言うのです。実に読むのがつらい言葉です。主イエスもまた深く心を動かされ、涙されるのです。

「この病気は死で終わるものではない」と語られた主イエスは、ラザロの墓の前に立たれ、「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけられます。主の御言葉は語られたとおりの出来事となって、ラザロは生き返って墓から起き上がり、ベタニアの家に帰るのです。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」
この主イエスの語りかけを、ヨハネの教会はどのように信じていったのでしょうか。どんな病気になっても、祈れば必ず主がいやしてくださると受けとめたのではないはずです。「この病気は死で終わるものではない。」
たとえ病にたおれ、死に至ることがあっても、主にあっては死で終わるものではないのです。死に際してもなおもそこに、主の御手がある。ラザロを起き上がらせた主が、いかなるときにも、救いの御手をもって起き上がらせてくださるのです。

ラザロの出来事を指して主イエスは、「神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4)と言われました。ラザロが墓から生き返らされたことは明らかに、主イエスが十字架にかけられ死に至られたあと、墓の中から起き上がり復活されたことを、指し示しているのです。

ラザロもまたやがて、死を迎えました。しかしそのときは、かつてのように、主がここにおられなかった悲しみの中ではなかったのです。ラザロがそうであったように、主が共にいてくださる慰めの中での死を迎えることができるのです。

私どもも、自分では受けたくないものを身に負うことがあります。受ける理由がどこにも見いだせないこともあるのです。しかしそのときに、主もまた共にいて、赦しと慰めをもって共に担ってくださるのです。教会の信じるひとりひとりを、主はその体の一部としてくださいました。それは、私どもの担っているものは、その病もまた主の一部分なのです。
実にもったいないことですが、主が私どもを愛して共に担ってくださる、そこに神の栄光があるのです。神の栄光は、世の光としてすべての人を照らします。主の体の一部とされた私どもは、主の愛に応えて、今も働いておられる主に仕え共に生きることができるのです。

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