2022年3月27日(日)礼拝式次第と説教 「さよならだけが人生ならば、」

 

教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

受難節第4主日礼拝
2022 年 3 月 27日(日)
司式 役員
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞    コリントの信徒への手紙二 4章18節
讃 美 歌    225-3節 〝すべてのものらよ〟
交読詩編     詩編 30編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   303-1節 〝丘の上の主の十字架〟
聖 書    コヘレトの言葉 3章1-13節(旧約1036頁)
説 教    『さよならだけが人生ならば、』  牧師 佐藤 倫子
讃 美 歌   393-1節 〝こころを一つに〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2022 年 3月 27日(日)
「さよならだけが人生ならば、」   牧師 佐藤 倫子
コヘレトの言葉 3章1-13節

 

私たちが考える「時」と神が定められる「時」は同じようでいて違っています。
私たちが思う「時」は時計と一緒。毎日朝が来て夜が来る、繰り返し同じ時が回り続ける直線のように捉えています。一方、確かに神様の時も過去から今に至るまで直線的に続いています。
けれども、神様の時には、もう一つ、コヘレトの言う、直線的というよりはむしろ瞬間を表す点のような時があります。私たちの人生にはこの点がたくさんあって、そこに神様が介入しておられる、そのような時です。

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

人生を生きていく中で様々な苦労があるでしょう。しかしその中でなお、懸命に生き続けることこそ、神の求める生き方だとコヘレトは私たちに教えてくれているのです。
私はこのことを国分寺教会で過ごす3年間の中で学ばせて頂いたような気がしています。国分寺教会は高齢化も進んでいます。礼拝出席がままならない方々もおられます。新型コロナウイルスの中で集まって献げる礼拝を閉じるという選択をした時期もありました。また、これまで教会を支えてくださっていた大切なメンバーを毎年のように天に送りました。これら一つひとつを見れば、希望が見えない、もう無理だと諦めてしまうこともあり得るでしょう。また、神様が定めているのだから、頑張ることは何の意味もないと考える事だってあり得ます。
けれども国分寺教会は違いました。この教会は多くの方々の奉仕によって、また祈りによって支えられている教会です。そこには、諦めなど一つもなかった。苦労はあるけれど、その中でなお懸命に生き続ける。どうしたらこの時代の中でコミュニティチャーチとしての役割を担えるのか。そのことを常に模索し続けている教会だと思わされました。

今、私はそんな国分寺教会を離れようとしています。さよならをいう時がきました。

 

『さよならだけが 人生ならば また来る春は 何だろう
はるかなはるかな 地の果てに 咲いている野の百合 何だろう
さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は 何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家 何だろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは 何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。』

これは井伏鱒二が訳した漢詩「さよならだけが人生だ」を受けて寺山修司が書いた「幸福が遠すぎたら」という題がつけられた詩です。
もし、「さよならだけが人生だ」だけが真理ならば、私たちの人生は「さよならだけ」に満ちているはずです。今日の私と皆さんのさよならも諦めの言葉として聞こえてくるでしょう。でも、寺山は「さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう」と歌うのです。それでも私たちはめぐり会うのだ、と。3年という限られた時間ではありましたが、私と皆さんの人生は交わり、その出会いはそれぞれの人生に確かな時として刻まれているのです。

 

今、私たちはレントの時を過ごしています。レントはイエスの十字架への道行きを覚える時です。確実にイエスとのさよならがある事が分かっています。さよならだけが人生ならば、イエスとの出会いもまた意味のないものだったのでしょうか。決してそうではない事を私たちは知っています。一人の人間として屈辱にまみれ、とても辛い十字架を背負われてイエスは私たちにさよならを言われました。そのさよならは、お前たちなんてどうでも良いと突き放すさよならでしょうか。あなたたちが変わる事はあり得ないと諦めたさよならでしょうか。そうではありません。イエスはこのさよならが永遠のさよならではないことを明らかにする為に、十字架につかれたのです。そして、その約束が真実であったことを私たちは知っています。私たちの裏切りや、私たちの不信仰を赦し、共に歩んでくださったイエスが今もなお生きておられることを。

『さよならだけが 人生ならば めぐり会う日は 何だろう』
その出会いには意味があったことをイエスはその身をもって証されました。今私たちはここでさよならを言おうとしています。

『さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません』
さよならだけが人生ならば、私がこの国分寺教会に来て、皆さんと時を過ごし、共に笑い、涙した時に何の意味もなくなってしまいます。
しかし、週に一度のたった数時間かもしれませんが、その時は確実にありました。その時は確実に、私たちの人生に刻まれています。そして、その私たちの真ん中には、いつも私たちと出会い続けてくださるイエスがおられました。そのイエスが共におられる時、場所は離れていても私たちは同じ時を過ごしているはずです。また、一度交わった人生の直線が再び交わる事もあります。十字架上のイエスとさよならした弟子達が、再び復活の主イエスと出会ったように、私たちの人生もきっとまたどこかで交わるはずだ、私はそう信じています。

 

「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」

神様が、その「時」を備えてくださることを期待しつつ、今日、ここからそれぞれの歩みへと押し出されて参りましょう。

 

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