2022年1月9日(日)礼拝式次第と説教 「支える手、支えられる人」

2022年1月9日

 

教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

新成人祝福礼拝(降臨節第3主日)
2022 年 1 月 9 日(日)
司式 牧師 佐藤 倫子
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞    詩編33編1-3節
讃 美 歌    393-2節 〝こころを一つに〟
交読詩編     詩編52編
祈 祷
讃 美 歌   507-1節 〝主に従うことは〟
聖 書    使徒言行録3章1-10節(新約217頁)
説 教    『支える手、支えられる人』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   512-2節 〝主よ、献げます〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2022 年1 月 9日(日)
「支える手、支えられる人」   牧師 上林 順一郎
使徒言行録3章1-10節

 

今日の聖書には一人の人が登場します。「生まれながら足が不自由で、神殿の入る人に施しを乞うために、毎日『美しの門』という神殿の門のそばに置かれていた」

産まれながら足が不自由な人、そのような人が当時の社会でどのように扱われていたか、古代のローマでは障害をもって生まれてきた子どもの多くは「捨てられる」のが一般的でした。それは死を意味していました。幸いにも「拾われること」があったとしても、多くは「見世物」にされるか、あるいは「物乞いをさせる」ために生かされるだけでした。いずれにしても、金銀を得るための「道具」だったのです。その人は「運ばれ、神殿の門のそばに置かれていた」とあります。まるで、物のように扱われていたということです。道行く人々は道端に落ちている石ころぐらいにしか彼を見ていなかったでしょう。

一方、その人にとっては目の前を通り過ぎるのは人間というより金銀の入っている「財布」としか見えていなかったことでしょう。

 

■見る、いろいろと
ところで、この聖書の箇所には「見る」という言葉が4回も出てきますが、いずれも違う「見る」という言葉が使われているのに注目しましょう。

「その人はペトロとヨハネとが境内に入ろうとするのを『見て』、施しを乞うた」(使徒言行録3:3)この「見る」は、英語でいえば「see」、ただ見ているという意味の言葉です。それに対して「ペトロはヨハネと一緒に彼を『じっと見て』、『私たちを見なさい』といいます」(3:4) まず「じっと見る」と訳されている言葉は「視線を合わせて見る」という意味で、次の私たちを「見なさい」は、「注視する」という意味です。無教会の聖書学者で塚本虎二さんはこの個所を「わたしたちの顔を見なさい」と訳しています。とてもよい訳だと思います。ペトロたちはその人に視線を合わせて見ます。そして彼に対して自分たちの顔を見なさい、と命じるのです。顔は人間の人格、個性の存在場所でもあります。お互いに顔を正面から見る、お互いに視線を合わせる、これは人間の関係としての基本です。上から目線で見下すのではなく、また下から卑屈に見上げるのでもなく、お互いに正面から見あうことが人間としての真実な出会いを引き起こすのです。ペトロは路上に座っている彼と同じ目の高さのなるためにしゃがんで話しかけたのかもしれません。その人は、生まれて初めて自分と同じ高さの人と出会ったのです。

 

■支える、支えられる
しかし、その人はまだ「何かもらえると思って、見つめています」。この「見つめる」は「期待を込めて見る」という意味です。もちろん、彼が見ているのはなお「金銭」だったのです。なにがしかの施しを得ること、それが彼の生きるための唯一の道だったからです。

ペトロは言います。「わたしに金や銀はないが、持っているものを上げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」ペトロが彼に与えたのは「イエス・キリストという名」でした。しかし、その人にとっては見知らぬ人の名前など、なんの意味があり、なんの役に立つのでしょうか。

しかし、ペトロは「イエス・キリストの名によって立ち上がれ」と言っただけではありません。彼は「右手を支えて彼を立ち上がらせたのです」。教会に求められているのはこのことです。言葉だけでなく、その人の右手を取り、支えて立ち上がらせることです。そのとき、彼の足やくるぶしが強くなって彼は立ち上がり、躍り上がり、ペトロやヨハネと共に神殿に入り、神を賛美します。神殿(教会)で神を賛美する者になったのです。教会はイエスの名を語っておしまいではなく、支え、立ち上がらせるまでが教会や説教の働きなのです。

 

■今年の漢字一字は?
去年、「クリスマス、一字で書けば」という題の説教で「友」という一字を書きました。新年を迎え、「今年一年を、一字で書けば」どんな文字で表すのでしょうか。わたしは「支える、支」という字を考えています」、「支」という字、上は十字架です。その下は「手」の形です。十字架を下から手で支えている字です。同時に下の「又」は歩いている「足」とも見えます。こうして並べてみると、「友」と「支」とは親戚みたいな字です。新しい一年は「支」です。「十字架を掲げる教会」を手と足を使って支えていきましょう。新しく招聘する牧師を手と足を使って支えましょう、そして教会員同士、手と足を使って支え合って生きましょう。

 

 

 

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