2022年1月2日(日)礼拝式次第と説教 「期待とは違う新しさ」

2022年1月2日

 

教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

新年礼拝(降臨節第2主日)
2022 年 1 月 2 日(日)
司式 役員
奏楽 内田 直美

前 奏
招 詞    ゼカリヤ書8章4-5節
讃 美 歌    367-1節 〝偉大なみ神の〟
交読詩編     詩編90編1-6節
祈 祷
讃 美 歌   271-4節 〝喜びはむねに〟
聖 書    ルカによる福音書2章41-52節(新約104頁)
説 教    『期待とは違う新しさ』  牧師 佐藤 倫子
讃 美 歌   431-3節 〝喜ばしい声ひびかせ〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2022 年1 月 2日(日)
「期待とは違う新しさ」   牧師 佐藤 倫子
ルカによる福音書2章41-52節

 

■戸惑い

先週の礼拝では、3人の学者がイエスを発見する喜びを取り上げました。そこに新しい居場所を見出した人々をみました。しかし、このルカの記事では、イエスを見失う両親の姿、そして、発見しても戸惑いを隠しきれない両親の姿が描かれています。

クリスマスを祝い、イエスの到来を喜んだけれども、それが一体何を意味しているのか、本当の所は分かっていないのではないでしょうか。

 

■本質を突く少年イエス

祭りの慣習を重んじた人々は年に3回(過越祭・七週祭・仮庵祭)にエルサレム神殿に礼拝を献げに詣でました。ナザレとエルサレムを往復するには複数のルートがありましたが、一般的だったのは、サマリヤの縁を通ってヨルダン川沿いを通り、エリコに出てエルサレムに行く4-5日を要する旅路だったそうです。イエスの家族は祭りの慣習に従って「都に上った」(新共同訳では「エルサレムへ旅をした」)とありますが、その言葉通り、1,000mも登っていかなければならない道のりでした。

「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(ルカ2:46)
ルカはこの箇所で、イエスの少年時代、すでに神の子である自覚を持っていたこと、またその聡明さを伝えようとしています。イスラエルの民の中でも最高の知恵を持つ学者たちの語る言葉、神の言、教えの解釈、そうしたものがイエスの心を捉え、時が過ぎるのも忘れ、夢中になって耳を傾けるイエスの姿があります。読み書き、理解する力が付いてきた少年イエスにとって、それは初めて触れる全く新しい世界でした。

またイエスが発する様々な質問は、今度は学者たちの心を捉えました。人々が驚いたイエスの賢い受け答えとは、決して優等生的なものではなかったでしょう。しかし、一流の学者たちが三日の間、イエスから離れなかった事実が示しているもの。公生涯におけるイエスは、神の言、律法の本質、真意を追究する人でした。その萌芽がここにあるのです。イエスの問いは本質を突いていたのでしょう。

 

■期待とは違う新しさ

その一方で、イエスを探していた両親の心配は人間としてもっともですが、同時に、本質を見誤らせる原因ともなるでしょう。これは私たちもまた経験するものではないでしょうか。幼子のイエス、少年のイエスの姿は、私たちの自由になる存在であるという錯覚を抱かせます。自分では理解したつもりでいて、イエスもその自分の理解の中にとどまってくれているのだと錯覚してしまうのです。イエスだけが本質を捉えていた。真理を見つめていた。イエスの生涯を通じて、私たちが期待する場所にはイエスはおられない、ということを経験します。イエスは、私たちの期待とは違うところにご自分を表される方です。その頂点にあるのが、十字架と復活です。この、神殿でのイエスの言葉には、全てが明らかになる復活を暗示する言葉がちりばめられています。その様子は、その言葉とイエス自身を理解していない両親の姿とは対照的に映ります。

イエスは、イスラエルの人々から、首都エルサレムで栄光に満ちた王座に着かれることが期待されていました。彼らが期待した救い主の姿は、栄光に輝く王の姿でした。しかし、現実のイエスは、エルサレムで栄華を極めるどころか、十字架につけられ、墓に葬られてしまいます。栄光に輝く玉座ではなく、冷たく暗い墓こそが、神の子イエスの居場所でした。暗く沈んだ世界に寄り添うことを選ばれたイエスの居場所でした。

しかし、わたしたちを悪夢のどん底に陥れる死の力をもってしても、イエスをその場に留めることはできません。イエスは復活されます。この復活を信じることによってのみ、わたしたちはイエスを見出すことができるのです。新しい年は、復活のいのちに生かされる「新しさ」を経験したいと願います。その希望に力を与えられ、生かされているわたしたちを感じたいのです。

期待したことが実現することと、期待しないことが実現することと、どちらの喜びが大きいでしょうか。わたしたちはそれぞれ、自分の知恵や知識、生活の経験、歴史の教訓から得た「物差し」をもっています。しかし、神のなさることは、この「物差し」を越えていて、はかれません。

 

わたしたちが招かれている場所は、入るのに何の資格もいらないのです。厳しい状況の中で迎える新しい年も、神に信頼して招かれているその場所で、共に歩んでいきたい。そのように願います。

 

 

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