教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
歳末礼拝(降臨節第1主日)
2021 年 12月 26日(日)
司式 役員
奏楽 三宅 さやか
前 奏
招 詞 イザヤ書49章10節
讃 美 歌 275-1節 〝闇を行くものは〟
交読詩編 詩編72編1-7節
祈 祷
讃 美 歌 278-1節 〝暗き闇に星光り〟
聖 書 マタイによる福音書2章1-12節(新約2頁)
説 教 『私の居場所』 牧師 佐藤 倫子
讃 美 歌 459-1節 〝飼い主わが主よ〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年12月26日(日)
「私の居場所」 牧師 佐藤 倫子
マタイによる福音書2章1-12節
■あの星
クリスマスには星がつきものです。クリスマスツリーのてっぺんにもひときわ目立つ星の飾りが輝いています。
しかし、不思議なのは、聖書において、その星を見たのが東方の学者たちだけだったということ。星を見たという人物について、他には誰も記されていません。エルサレムの人々も、ヘロデ王も、そのお抱えの学者たちも、東方の学者たちに尋ねられるまで、星に気づいていたとはとても思えません。
実際、聖書には「大きく輝く星」とは記されていません。もしかしたらこの星は、専門の学者でなければ気がつかないほどの小さな目立たない星だったのかもしれません。砂漠の上、雲もなく満点に広がる星空の一隅に、いつの間にかそっと加わった新しい小さな星に気づいたのは、いつも空を見続けている、ごく一握りの人たちだけだったのではないでしょうか。
■片隅の小さな光
東方の学者たちは、そんな小さな星を目印に救い主を訪問した際、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。それは、それぞれの人生において意味があるものでした。彼ら自身の、それまでの生活を象徴するものです。商売道具であったり、貴重な財産であったもの。さらに、これらは、彼ら自身とイエスとの関係を表現するものでもありました。
学者たちは知っていたのでしょうか。すでに預言者イザヤによって、価値観がすべて逆転することが語られていたことを。「人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」によってこそ、救いがあることを。
没薬を混ぜたぶどう酒は、処刑者に対して、処刑前に鎮痛剤として与えられるものです。また、ラテン語では"ミルラ"と呼ばれ、薬や死体埋葬時の芳香としても使用されたことが知られています。ちなみに、このミルラのポルトガル語が"ミイラ"。そして実際に、イエスが埋葬される時、この没薬が使用されたと聖書は記します。
■私の居場所
ところで、イエスの誕生物語は、居場所が1つのテーマになっています。ヨセフやマリアたちは泊まるところがありませんでした。さらに、イエスの誕生後もエジプトへ逃げなければなりません。羊飼いは野宿をしていました。東方の学者たちは旅人です。学者たちは、"本当の救い"を求めて、イエスへと辿り着きました。それまでの地位や生活を捨てて。
この、それぞれ居場所のない人たちにとって、インマヌエル(神は我々と共におられる)という名が意味あるものとなった、というのが、クリスマスの一つの側面です。居場所を持たない人々が、イエスの元に自分たちの居場所を見つけることになるのです。もちろん、それぞれが探し求めてそこへ至ったわけですが、裏返せば、神ご自身が導き、神ご自身がその人たちの居場所となってくださったということを意味しています。
■居場所としての教会
近年、よく用いられるホームレスという言葉があります。現実に家がない(ハウスレス)ばかりでなく、帰る場所(ホーム)がない、という意味でのホームレスが、今、世界に多く存在しているように思えます。
人々は、教会に居場所を見出しているのでしょうか。教会の中には椅子もあります。机もあります。台所もあります。しかし、本当に大切なのは、「ここにいてよいのだ」、「神が私と共におられる」ということを経験できる場所なのです。教会はそのための時と場所を献げることを求められているのです。
■私たちは何を献げるだろう
占星術の学者たちは、イスラエルの民でないにもかかわらず、神の子イエスと共にいて、その誕生に敬意を払いました。そこに居場所を見出しました。学者たちにならって、私たちも自分の「宝の箱」をあけて贈り物をしたいと思います。「宝の箱」に入れてきた、自分にとっての商売道具であろうと、財宝であろうと、いずれにせよ、かけがえのないものをここに献げるのです。それまでの自分を支えてきたものに頼るのではなく、分かち合っていく。自分なりに整えてきた場所に安住するのではなく、新しい居場所に向かっていく。
私たちは何を献げることが出来るでしょう。
そして、なぜ、それを献げるのでしょう。2021年の最後に考えてみたいと思います。