教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。
日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。
謝恩日礼拝(降臨前第5主日)
2021 年 11月 21日(日)
司式 役員
奏楽 三宅 さやか
前 奏
招 詞 詩編20編8-9節
讃 美 歌 351-1節 〝聖なる聖なる〟
交読詩編 詩編89編20-30節
祈 祷
讃 美 歌 358-2節 〝小羊をばほめたたえよ!〟
聖 書 サムエル記上 16章5b-13節(旧約453頁)
説 教 『主のまなざし』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌 465-1節 〝神ともにいまして〟
信仰告白 〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏
説教 2021年11月21日(日)
「主のまなざし」 伝道師 佐藤 倫子
サムエル記上 16章5b-13節
■油注がれて
教会で洗礼を受けた時からクリスチャンとしての歩みが始まります。
洗礼とは、水を注がれることによってイエス・キリストに従う新しい歩みを公に表す一生に一度の儀式です。旧約聖書の時代、王の任職の際には「油注ぎ」という非常に重要な儀式が行われていました。サウルやダビデが油を注がれたように、王の油注ぎは、洗礼の時、新しい歩みを始めようとする一人一人に授けられているのです。
それでは、私たちが神の憐れみを受けたのはなぜでしょう。他の人と比べて何か優れたところがあったからでしょうか。生まれながらに備わったものがあったからでしょうか。
今日の聖書箇所にはイスラエル初代の王・サウルの後継者として、預言者サムエルによってダビデが選ばれ、王の任職の儀式である「油注ぎ」を受ける場面が描かれていました。神によって王とされたサウルでしたが、自分の立場に甘え、尊大になり過ぎた事で、主はサウルに変わる王を選ばれたのです。誤った指導者を立ててしまったことを嘆くサムエルに「王となる者を見出した」と主は伝えました。それは新しい時代の始まりを意味しています。サムエルはその主の言葉を受けとりました。後ろをばかり見ていた彼が、再び前を向くことができるようになります。
そして主の言葉を受けたサムエルがエッサイの元に行くと、7人の屈強な息子たちが彼を迎えます。息子たちを見たサムエルは、顔の美しさや、背の高さを見て、主が選ばれる者に相応しいと考えていました。しかしここで、主なる神はサムエルに言われます。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節)と。そして選ばれたのは、兄弟の中でも最も年若く、まだ少年であったダビデでした。
主が何を見るのか。それは私たちにはわかりません。ただ、私たちが思ってもみなかったようなことに目を留め、その人の本質を見られます。主の選びは私たちの思いをはるかに超えて自由です。足元ばかりを見ている私たちとは違って、いつも前を見ている。それが主のまなざしです。聖書は私たちに、そのまなざしがどこを向いているのかを伝えるのです。
■聖書における「見る」
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節)。この言葉は、ものの見方が大切であることを言っています。何を見るべきか、何を知るべきか。「見る」という行為を通して、私たちは神がいつ、どこで働かれているのかを知ることができます。神の語りかけに気づくことが出来るのです。
しかし、イエスは「見ないのに信じる人」を良しとしたのではなかったか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かにその通りです。人間にとって大切なものは、その多くが目に見えません。他人との大切なつながりを生み出す言葉は目に見ることができません。時間も生命も見えません。心も精神も、愛も幸せも、また喜びや悲しみも、善も悪も、嘘も真も目で見ることはできないのです。それでも、私たちはその存在を知っています。それと同じことが「信じる」上で大切なことなのだ、たとえ目に見えなくても、信じることができるのだ、とイエスは言っているのです。
■主のまなざし
しかし、様々な奇跡を体験したイエスラエルの人々が、すぐに神の約束を信じられなくなったように、人間は体験したことをすぐに忘れてしまいます。神の働きを見ていたはずの人間の目は、すぐに曇ってしまいます。
預言者は先に見る者、先見者とも言われます。神がこの世界に何をなさるのか、人々よりも先に見ることができるので、そう呼ばれます。その先見者であるサムエルが、新しい王を選ぶときには心の目が見えなくっています。
それでもなお、主なる神はサムエルを見捨てません。主のまなざしはサムエルを見つめ続けておられる。そのまなざしは、もちろん、私たちにもいつも注がれています。主は私たちを愛しておられるからです。困難な状況に置かれたそのような時こそ、思い起こしたちと思います。私たちは、知っているはずです。主は私たちを愛してくださっています。いつも、その暖かいまなざしを私たちに注いでくださっています。
そのまなざしに感謝し、ただ主に従う。愛のまなざしの中で、主から目をそらさずに、主に向かって歩み続けましょう。