2021年11月7日(日)礼拝式次第と説教 「完成させるのは神」

2021年11月7日

 

10月より、教会に集う形での礼拝を再開しております。
CS(9時〜)と夕礼拝(毎月第2日曜日 18時30分〜)も再開しております。
引き続き感染症対策にご協力ください。

日曜日の10時30分からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」、午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

みなさまのご健康が守られますようお祈りいたします。

 

 

召天者記念礼拝(降臨前第7主日)
2021 年 11月 7日(日)
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞     詩編34編9節
讃 美 歌   493-1節 〝いつくしみ深い〟
交読詩編     詩編23編
祈 祷
讃 美 歌   451-2節 〝くすしきみ恵み〟
聖 書    テサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節(新約379頁)
説 教    『完成させるのは神』  牧師 上林 順一郎
讃 美 歌   465-3節 〝神ともにいまして〟
信仰告白  〝使徒信条〟
追悼の祈り
献 金
主の祈り
頌 栄    27 〝父・子・聖霊の〟
祝 福
後 奏

 

 

 

 

説教 2021年11月7日(日)
「完成させるのは神」    牧師 上林 順一郎
テサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節

 

私たちの一生は、「一枚のジュータンを織るようなものだ」と言った人がいます。ジュータンというのは、タテの糸とヨコの糸とを織り合わせながら、一枚一枚、手作業で絵柄を作り上げていくもので、その技術は古代から女性たちによって伝えられてきました。

ところで、なぜジュータンが人生にたとえられるのでしょうか。ジュータンは「タテの糸とヨコの糸」を組み合わせながら美しい絵柄が作り上げられていきます。わたしたちの一生も、タテの糸という神様との結びつき、そして家族や友人や社会との絆というヨコの糸が組み合わされて、一人一人の人生模様が作られていくのです。手織りのジュータンは同じ絵柄はなく一枚一枚すべてが違い、同じものは世界に二つとないのです。私たちの一生も一人一人違っており、同じ人生というのは決してありません。ですから、一人一人のどのような人生も価値があり、他人とは取り換えることはできないのです。

 

 

ジュータンを織る

今日は召天者記念礼拝です。お手元の召天者の名簿にはこの国分寺教会で共に神様を賛美し、共に信仰生活を送り、祈り合った信仰の友たちの名前が記されています。お一人一人の人生はそれぞれに違います。また、その信仰生活もひとりひとり異なっています。しかし、神様と結び合わされているタテの糸、この信仰のタテ糸は同じ糸です。国分寺教会で与えられた多くの人々との信仰の交わりというヨコの糸は多様であります。しかしひとりの神様を通してお互いにつながっています。この二つの糸が組み合わされて私たちの人生があり、また教会があるのです。

 

さきほど私たちの一生はジュータンを織るようなものだと申しました。昔、人の手で織られたジュータンは、実は裏側からで織っていったのだそうです。ですから、織っている途中はジュータンの絵柄の全部は分からないのですが、すべて織り終わるとジュータンを表側に返します。その時、初めて絵柄のすべてが現れるのです。織っている途中では裏側は糸がほつれていたり、糸が縺れていたり、絵柄も不完全なままです。わたしたちの人生も同じではないでしょうか?

毎日の生活は破れていたり、間違いを犯していたり、不完全な日々であります。生きている途中で、私たちの人生がどのような姿であるのかは私たち自身にも分かりません。人生の終わりに至ったときにはじめて自分の一生がどのようなものであったかが明らかになるのです。私たちの人生もジュータンを織る途中のように未完成なのです。しかし、神様は最後の時に私たちの完全な姿を用意してくださっているのです。

 

 

完成させるは神

パウロは今日の聖書の箇所で、「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」と書いています。私たちの信仰の人生の「タテの糸」と「ヨコの糸」がここにあります。信仰のタテの線とは「絶えず祈る」ことです。神への祈りが神と私たちをつなぐタテの糸なのです。ヨコの糸とは「すべてのことに感謝しなさい」です。私たちの行動の結果がどのようなものであれ、それは人々への感謝によって全うされるのです。そして、神と人との糸が織り合わされて信仰の人生がつづられていくのです。人生における最後の絵柄をわたしは「喜びなさい」と考えます。一生を通して織り続けられてきた私たちのジュータンが最後に表に向けられた時、そこに現れてくる絵柄は「いつも喜んでいなさい」という信仰による喜びが、私たちの一生を完成させる絵柄として現れてくるのです。たとえ、私たちが自分で織ってきた裏側の絵柄は乱れており、織り残しの部分がある不十分なものであったとしても、最後の絵柄は神が完成させてくださるのです。

パウロはこう言います。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとして下さいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、私たちの主イエス・キリストの来られるとき、非の打ちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのようにして下さいます」

 

神様はジュータンを織るように私たちの人生を完成させてくださるのです。私たちが自分で完成させる必要はないのです。私たちを造り、生かし、そして信仰へと招いて下さった神が必ず完成させてくださるのです。私たちはその神のなさることにすべてお任せすればよいのです。その時、非の打ちどころのない人生に変えられるのです。

 

 

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