2021年7月18日(日)礼拝式次第と説教 「たとえ完璧でなくても・・・」

2021年7月18日

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝 2021 年 7月 18日(日)
司式 役員
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞     コリントの信徒への手紙二 4章7節
讃 美 歌   148-1節 〝全地よ、主に向かい〟
交読詩     詩編102編16-23節
祈 祷
讃 美 歌   443-1節 〝冠も天の座も〟
聖 書    ローマの信徒への手紙9章19-28節(新約287頁)
説 教    『たとえ完璧でなくても・・・』  伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   403-3節 〝聞けよ、愛と真理の〟
信仰告白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福

 

 

 

説教 2021年7月18日(日)
「たとえ完璧でなくても・・・」   伝道師 佐藤 倫子
ローマの信徒への手紙9章19-28節

 

■完璧
「完璧」の「璧(へき)」は平らで中央に孔のあいた宝玉のことで、完璧は「傷のない玉」が本来の意味となります。この「完璧」が現在使われる「欠点や不足が全くなく、非常に立派なさま(こと)。完全無欠。」という意味となった由来は、「完璧而帰(璧をまっとうして帰る)」という中国の故事に由来します。

 

■神の責任?人間の責任?
「あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。」(ローマ9:19)

人間の心を神が頑なにされたとするならば、なぜ人間の責任が問われなければならないのでしょう。自由意志による行動ではなく、神の思うがままに人間の行動が規定されているとするならば、それで人の罪が咎められること自体が理不尽です。責任は神こそ負うべきではないか、との非難を想定し、問答が進められていきます。
ローマの信徒への手紙は、パウロがまだ一度も訪問したことのないローマの教会に書き送った手紙です。ここでパウロは、他の手紙のように教会内に起こった問題や質問、あるいはパウロに対する批判に応える内容を記しているのではなく、これまでパウロが直面した教会内の問題や反対者たちの主張などを取り上げ、それと対論する形で福音の内容を明らかにしようとします。

 

■陶器と陶工の譬え
問題設定の答えとして、パウロは神と人を陶工と陶器に譬えて反論します。この譬えの言葉は、旧約聖書中でも数カ所に見られる有名な言葉。
パウロは、神の支配に対する人間の側からの告発を一蹴します。それは、そもそも神と人間との関係が、人間によって神の正しさが吟味され、人間が納得して初めて神が神とされるのではないからです。神が全てに先立って世界を支配しておられるのであり、人間の秤によって、何が神であるかを判断することはできないのです。
パウロは陶器の譬えを通して、パウロ自身でさえも、もともと「怒りの器」であったけれども、神は寛大な心で忍ばれ、「憐れみの器」としてその計画の中に入れてくださったという感謝を、喜びをもって語るのです。
当時、「わたしの民ではない」者とは、異邦人を指すことが明白でした。だから、パウロは敢えて、ホセア書の言葉を引用するのです。背信のイスラエルに対する神の憐れみを語るホセア書の言葉を異邦人と重ねることで、イスラエルと同様に、異邦人も「神の民」、「神に愛された者」なのであり、神の憐れみによって救われるのだ、と語るのです。

「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」(ローマ9:24)

神の前には、ユダヤ人も異邦人もなく、キリスト者は共に神の憐れみを抱いて生きる器なのです。

 

■たとえ完璧でなくても…
焼き物師の作る陶器には、さまざまな種類があります。大きな皿もあれば器もあります。花瓶もあれば、絵皿もあるでしょう。その作品の一つ一つが、「我こそは最高傑作である」と主張し始めたとしたら、どうでしょう。「自分こそが、何一つ欠けのない、完全な作品である」と主張したら。「ほかの作品になど目もくれず、わたしだけを見てほしい、いや、見るべきだ。」と。そうなれば、気になるのは隣の器の破れや欠け。本当は自分にも傷があるのに、それには目をふさぎ、よそばかりが気になります。
神が造られた人間が、どのような働きをするのかは、私たち自身にはわかりません。人間の目から見て良い、悪いが問題ではなく、人間が勝手に壁を造り、救われる者と救われない者を判断してよいものでもないのです。すべて、神が良いものとして造られ、愛される存在なのです。
陶器が陶工に対して意見をするように、人間が神に対して不平を言うことは、全く的外れな姿です。しかし、神は、そのような人間を憐れんで救いへと導いてくださいます。そして、その救いは、ユダヤ人のみならず、全ての人に向けられているのです。わたしたちはその神の愛を信じたい。その愛の中で隣人と共に生きていきたい、そう願いながら、祈り求めながら1週間の歩みを進めてまいりましょう。

 

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