2021年3月28日(日)礼拝式次第と説教 「すべてを神にゆだねる」

2021年3月28日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2021 年 3月 28 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 河野 美和子

前 奏
招 詞     コリントの信徒への手紙一 13章13節
讃 美 歌    156-1節 〝目を上げ、わたしは見る〟
交読詩 編   詩編121編
祈 祷
讃 美 歌    311-1節 〝血しおしたたる〟
聖 書     マタイによる福音書27章45-56節(新約58頁)
説 教     『すべてを神にゆだねる』 牧師 願念 望
讃 美 歌    303-1節 〝丘の上の主の十字架〟
信仰告 白   〝使徒信条〟
献 金
主の祈 り
派遣の賛 美   90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2021 年3月28日(日) マタイ27:45-56
「すべてを神にゆだねる」        牧師  願念 望

主は、私どものために命を献げて、救いの道をつくってくださいました。それは、天地創造にまさる創造です。救いの創造の尊さに思いを深めてまいりたい。
主イエスが十字架にかかられたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(51)たとあります。神殿の垂れ幕というのは、神殿の奥にある聖なる至聖所の入口の垂れ幕です。そこへは限られた者しか入ることができませんでした。聖なる神に出会うところ、天へと繋がる区切りが壊されたということは、主イエスによってその区切りが取り除かれたことを意味します。主イエスによって、信じる者は誰でも救いを受けることができるのです。
あるいは、至聖所の垂れ幕が裂けたということは、神殿が不可欠な至聖所を失い、神殿が壊れたことに相当すると言われます。実際、主イエスが死なれたことは、主イエスという神殿が壊れたことだというのです。

主イエス・キリストは、死からよみがえられて、救い主として今も生きて働いておられます。その救いが世界中に広がるはじまりのしるしとして、神殿の垂れ幕が裂けたのです。エルサレム神殿に限らない礼拝がはじまった。聖なる神殿を中心とした礼拝ではなく、私どものように、復活された主イエスによる礼拝が世界中に広まっていったのです。

主イエス・キリストが私どものために苦しまれたことを思うとき、主イエスは私どものことを本当に分かってくださると信じることができます。主イエスは同情をはるかに超えた深い理解をもって、私どもと共にいてくださるのです。ですから私どもは自分ですべてを解決しようとしないで、主が共にいてくださることを信じて、自分を主にあずけつつ励むことができます。主イエスは私どもの模範となるようにして、主にすべてをゆだねて生きる幸いを、十字架の上に示されました。

主イエスは「大声で叫び、息を引き取られた」(50)とありますが、ルカによると「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(23:46)と言って息を引き取られました。「息を引き取られた」というのは、元々の言葉では、息を渡された、という意味です。神から吹き入れられた命の息をすべて父なる神にゆだねられて死なれました。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というのが、十字架上での最後の言葉です。この言葉は、詩編の祈りの言葉だと言われます。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」(31編6節)
この祈りは、当時のユダヤ人たちの午後3時の祈りでもあったそうです。彼らにとって、日暮れになって日が沈みますと一日が終わりますので、午後3時の祈りは夕べの祈りでもありました。
主イエスが夕べの祈りを十字架の上で献げて、すべてをゆだねていかれた。それによって、「わたしを贖ってください」という祈りが私どものためにも成就したのです。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈られた主イエス・キリストを信じて、私どもも、「わたしを贖ってください」私をお救いください、と祈ることができるのです。
伝えられているところによれば、マルティン・ルターも主イエスにならって、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈って天に召されたそうです。私どももすべてを主にゆだねて召されることができる。しかしこの祈りは、天に召されるときだけの祈りではない。日毎の祈りとして祈り、神にゆだねる幸いの中で、精一杯生きることができるのです。

主イエスが息を引き取られたとき、その命の息を受け継ぐようにして、そのそばで見ていた百人隊長や見張りをしていた人々が告白しました。「本当に、この人は神の子だった。」百人隊長というのは、主イエスを十字架にかけるときの具体的指示をした人です。その百人隊長とおそらくは部下たちが、イエスを認めて、その魂に小さな信仰が芽生えたのです。伝説では百人隊長はキリスト者になったと伝えられています。

主イエスは息を引き取られる前に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46)と叫ぶように祈られました。この祈りは、本来私どもが祈る祈りを、主イエスが代わって祈ってくださったのだと言われます。ですからもはや、いかなるときにも主にすべてをゆだねて生きることができる。むしろ、なぜ私のような者を愛してくださるのですか、と祈ることができる救いに生かしてくださるのです。

どうか私どもは、主イエスの命が献げられた祈りによって救われることを信じていきたい。どこにいても、どのようなときも、すべてを主なる神にゆだねることができる幸いを、共に生きていきましょう。

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