2020年11月22日(日)礼拝式次第と説教「祈りの献げもの」

2020年11月22日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

主日礼拝 2020 年 11月 22 日(日)午前 10 時 30 分
司式 伝道師 佐藤 倫子
奏楽 三宅 さやか

前 奏
招 詞    ヨハネの黙示録3章20節 司 式 者
讃 美 歌   17-1節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編   詩編51編12-19節
祈 祷
讃 美 歌   434-1節 〝主よ、みもとに〟
聖 書    詩編50編7-15節(旧約883頁)
説 教    『祈りの献げもの』 牧師 願念 望
讃 美 歌   492-1節 〝み神をたたえる心こそは〟
信仰告 白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

説教 2020年11月22日(日)詩編50:7-15
「祈りの献げもの」               牧師 願念 望

先日、ある方たちと信仰の入門的な学びをしました。そのときに、「苦しいときの神頼み」の話題になりました。
「苦しいときの神頼み」というのは、あまりよくない意味合いで使われるのではないでしょうか。普段は神様のことは忘れているのに、苦しいとき、悩みのときになると神様を頼っていく。人は身勝手だということでしょう。
しかし、「苦しいときの神頼み」ができるのは幸いなことだと話しました。むしろ、人が陥りやすいのは「苦しいときの神離れ」です。このことは、友人の神学者から実感として聞いたことで、私も同じように思います。人の身勝手さ、罪深さと言っていいものですが、苦しいときに、苦難の日に、信仰を捨ててしまうことがあるというのです。どうして自分がこんな目にあわなくてはならないのかと、神離れをしてしまうことがあるのです。

この朝与えられています詩編の中で、主なる神は語りかけてくださいます。「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。」(15) この箇所は、直訳しますと、「わたしを呼びなさい、苦難の日に、わたしはお前を救おう」となります。少し語順を変えて、「苦難の日に、わたしを呼びなさい。わたしはあなたを救おう」と訳した方がいいと思っています。みなさんの中には、口語訳聖書の「悩みの日に、わたしを呼べ」という言葉を思い起こされる方もあるでしょう。
主なる神は、「苦しいときの神頼み」と言われるような、人の身勝手さを十分に受けとめた上で、「悩みの日に、わたしを呼べ」と語りかけておられるのです。

詩篇50編で語りかけられている言葉に、じっくりと耳を傾けますと、主なる神の大きな嘆きを聞き取ることができます。それは、人の身勝手さと言っていいものです。主は人の身勝手さを十分に受けとめてくださるのですが、しかし、そのままでいいわけではありません。どういう嘆きでしょうか。

当時、人々は神様に祈りを献げて願い事をするとき、特に、罪の赦しを願うときに、献げものをしました。動物を犠牲の献げものにしたのです。
そのときに、ある者は雄山羊を献げ、ある者はりっぱな雄牛を献げたのです。そうすると、人々の目が献げものにいって、すごくりっぱな献げものだと賞賛したりする。あるいは献げる本人も、人目を気にして、献げる行為自体を誇るようになって、肝心の神様への祈りがないがしろになってしまうのです。礼拝や祈りが形骸化していると、主が嘆いておられるのです。

主なる神の嘆きのひとつに、「わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか」(13)とあります。主は祈りが献げられるのを聞きたいと願って待っておられる。心から悔い改めて神へと向き直る祈りを主は喜んでくださるのです。もはや犠牲を献げるのではなく、祈りを献げるようにと語りかけておられるのです。祈りの中身は神様への願いや悔い改めの告白ですから、祈りを告白と言うこともできます。
「告白を神へのいけにえとしてささげ」るようにとあります。
50編は続く51編とひとつにつながっていると考えることができます。「告白を神へのいけにえとしてささげ」るようにとの呼びかけに応えるように、51編の冒頭に告白としての祈りがあります。
「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。
深い憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。」(51:1)

ある教会は、礼拝の度ごとに、詩篇51編を告白していたことがあると聞きました。そうでなくても、私どもは礼拝の度ごとに、祈りを献げている。私自身、私のような者を受け入れ、赦してくださる主を信じて、主よ、お赦しください、と祈るのです。私どもは、祈りの献げものを心から喜んでくださる主を信じて生きているのです。

詩編が語ることは、やがて主イエス・キリストによって成就したと言われます。もはや犠牲を献げる礼拝は必要なくなったのです。それは、神の独り子である主イエス・キリスト自らが、永遠の犠牲の献げものとして十字架に命を献げ、神の審きを受けてくださったからです。主なる神との祈りの道を、主イエスが通じさせてくださったのです。

主は今もなお、「苦難の日に、わたしを呼びなさい。わたしはあなたを救おう」と語りかけてくださる。主イエスによって、私どもと主なる神との間に、道が通じていることを信じて祈っていきましょう。何も持たずとも、心から赦しを願い、神様を頼みとして助けを祈ることを、主は心から喜んでくださるのです。

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