2020年11月8日(日)礼拝式次第と説教 「さあ、目をあげて」

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 降臨前第7主日礼拝 2020年11月8日(日)午前10時30分
司式 牧師 願念 望
奏楽 浅井 義子

前 奏
招 詞      マタイによる福音書18章3b-5節
讃美歌   464-1節 〝ほめたたえよう〟
交読詩編  詩編105編 1-6節
祈 祷
讃 美 歌   153-1節 〝幸いな人〟
聖 書    創世記13章1-18節(旧約16頁)
説 教    『さあ、目をあげて』 伝道師 佐藤 倫子
讃 美 歌   507-1節 〝主に、来たり、祝したまえ〟
信仰告白  〝使徒信条〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福
後 奏

 

説教 2020年11月8日(日)創世記13章1-18節
「さあ、目をあげて」              伝道師 佐藤 倫子

■選択の時

アブラムの物語は、人間の様々な側面を伝えています。「信仰の父」、「偉大な父」と呼ばれるアブラム、後のアブラハムですが、その様な立派な側面だけが描かれているわけではありません。むしろ不完全な姿、未熟な姿も隠さずに示しています。アブラムは神の招きに応じて旅を始めます。安住の地を得ることがなく、居場所を探して終わりのない日々を歩き続けなくてはいけません。この旅をすること自体が既に「不安定」を自身に引き受けることでした。しかし、アブラムはその不安定をまず引き受けます。それが彼の信仰だったのでしょう。アブラムの父テラと妻のサライ、そして甥のロトと共に、故郷であるウルを出て、カナン地方へと移り住み、さらにユダの南の地ネゲブまで旅をしました。それぞれの家族は長い旅の間で家族も増え、従う者や家畜を飼う者たちもたくさん引き連れて次第にお互い大所帯になっていきます。次第に争い事も増えるようになり、双方の群れが1つの土地で暮らすことが難しいと判断したアブラムは、ロトに対して、「あなたが左に行くなら、私は右に行き、あなたが右に行くなら、私は左に行こう」と言います。アブラムはその選択をロトに委ねたのです。ロトはこの提案を受けて、目をあげると主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤った土地が目の前に映りました。その光景を見たロトは、その広がる土地へと向かうことを選択します。

 

■希望の言葉

ロトが選んだ道へと去った後、アブラムに神は語りかけられました。「さあ、目をあげて、見渡しなさい」と。ロトの時は、目をあげると、そこには肥沃な大地があり、言葉は何もいりませんでした。しかし、アブラムの場合は、わざわざ主が直接アブラムに語りかけられています。さて、神の呼びかけに応えたアブラムが一体その目で何を見たのか。気になるところですが、聖書には特に何も書かれていません。そこに広がる光景はきっと普段と何ら代わらないものだったのではないかと想像します。その現実に落胆しつつあるアブラムに、神は続けて御言葉を与えられるのです。「見える限りの土地をすべて、永久にあなたと子孫に与えよう。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないほどになるだろう。」と。まだ見ぬ将来の繁栄を約束する言葉が与えられたのです。この励ましの言葉は、今、目に見えることを語っている言葉ではありません。見えるものであったなら、ロトの時のように言葉は何もいらなかったはずです。主が目をあげさせたのは、来るべき未来への希望を示すためでした。目の前にある現実に囚われて落胆してはいけない、という思いを込めて、主は、将来への希望の約束を語り、心の目をあげることを促されました。その思いに応えたアブラムは、これまで見ていなかったもの、見えなかったものをそこに見ることになったのです。そして神の御言葉を信じて、再び旅立ちました。大きな希望を胸に抱きながら。

 

■さあ、目をあげて

分かれ道の選択に立たされた時、どちらを選ぶべきか。どちらを選んだ方がより良く生きられるのか。その答えは私たちには分かりません。アブラムは、ロトのように目に見えて良い選択をした訳ではありません。もっと言えば、自分で考えて選んだ道ではなく、神が選ばれた選択をある意味で押し付けられた状態です。しかしアブラムは、それが主の備えられた道だと信じたからこそ、その先に希望があるはずだと謙虚に受け入れて歩んだからこそ、与えられたものは、より大きなものでした。選ぶ前より、選んだ後の道のりこそが重要なことなのです。新型コロナウィルスにより、私たちの日常は大きく変わりました。それまで当たり前だと思っていた日常が当たり前ではなくなった。それはこの礼拝1つとってもそうです。先週から今週で事態が大きく好転した訳でもありません。私たちの目の前にあるのは、変わることのない暗い現実です。しかし、そんな私たちにも神は「さあ、目をあげて」と語りかけられています。だから私たちは変わらず今年も子ども祝福をし、祈りを合わせるのです。どのような時にも主に向かう道への歩みを止めることはありません。目の前に広がる現実の道が光り輝く道であったとしても、その先が辛く、険しい道のりとなることがあります。間違った道を選んでしまったと後悔に襲われる時もあります。しかし、与えられた道がどのような道であっても、その道を歩く私たちに、主は「さあ、目をあげなさい」と、希望の未来を示してくださっていると信じて、歩んでまいりましょう。

 

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