2020年10月4日(日)礼拝式次第と説教 「いのちの門」

2020年10月4日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年9月20日(日)10時30分
聖霊降臨節第 19主日礼拝
司式   牧師 願念 望
奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞     詩編103編1-5節
讃美歌    17-1節 〝聖なる主の美しさと〟
交読詩編  詩編139編23-24節
祈 祷
讃美歌    56-1節 〝主よ、いのちのパンをさき〟
聖 書      ヨハネによる福音書10章7-18節(新約頁)
説 教     『いのちの門』    牧師 願念 望
讃美歌     461-1節 〝みめぐみゆたけき〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020年10月5日(日)ヨハネによる福音書10:7-18
「いのちの門」                 牧師 願念 望

主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、聖書は言葉で伝えてきました。言葉で伝えることには、大きな強みがあります。食品のように腐ったりしないのです。どんなに立派な建物もいつかは崩れるときがきますが、言葉はそうではないのです。
この朝与えられています箇所にも、「わたしは羊の門である」(7)「わたしは門である」(9)「わたしは良い羊飼いである」(11)とあります。
神様が、御自身がどのようなお方であるかを、私どもに言葉で伝えてくださったことには、主なる神の知恵があると思います。主なる神は信じるべきお方ですが、どのようなお方として信じるのか、イメージできる言葉が語られたことは、私どもの信仰を支える神の言葉となるのです。
しかし主イエスをどのように言い表しても、言い表しきれないところがあります。主なる神は私どもの知識や経験では捉えきれないからです。しかしそれでもなお、主は私どもの傍らにまで来てくださって、私どもが理解できるように、幾重にも重ねて語りかけてくださるのです。

主イエス・キリストは、御自身をたとえて言われました。「わたしは羊の門である」「わたしは門である」。当時の人々にとって、羊も門も、身近なものでした。羊や羊飼いを目にすることは日常でした。羊飼いが羊をすべて掌握して養い守っていく姿は、神様を指し示すイメージとして聖書で用いられてきました。伝説では羊を獣から守るために命がけで戦った姿が伝えられているそうですが、まさに主イエスは十字架に命を献げて、羊である私どものために救いの道を切り開いてくださいました。 門も、主イエスの言葉を直接聞いていた人々にとっては、生活の一部でした。羊が夕方門を通って囲いの中に入り、危険から守られていく。そのように、主イエスが私どもの羊の門となってくださる、命をかけてまもってくださることは、自分のよりどころを見いだす言葉となるのです。当時、エルサレムの町は城壁に囲まれ、いくつもの門を通って町に入りました。門の中は守られていた。
主イエスは語りかけられます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」(9) 主イエスは救いの門であり、その救いの中で御自身のいのちと繋がって生きるように養ってくださる、いのちの門であるのです。
主イエスはどうのように、御自身のいのちと繋がって生きるように養ってくださるのでしょうか。
主イエスは御自身を「わたしは良い羊飼いである」とたとえられて、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。
今日の箇所には、このあと「命を捨てる」あるいは同じ意味で「それを捨てる」という言葉が、三回も重ねて語られています。命を献げると訳してもいいと思いますが、とても心にとまりました。明らかにきわめて重要な、聞き漏らせない言葉です。

主イエスはどうのように、御自身のいのちと繋がって生きるように養ってくださるのかというときに、主は私どもを、命を捨てても惜しくない存在として見ていてくださっているということです。しかも、弟子たちがそうであったように、信じるその前からです。神の愛は、信じる前から私どもに向けられている。そのことは、私どもが仮に苦手にする人がいて、できれば会いたくないと思うような人がいたとしても、その人にも向けられている神の愛なのです。

「命を捨てる」と訳されている言葉を調べてみました。ヨハネ福音書では、13章にも用いられています。そこでは、「上着を脱ぎ」(13:4)の脱ぐと訳されている。もともとは、そこに置くという意味の言葉です。文脈によって、命をそこに置く、という意味で命を捨てる、上着をそこに置くという意味で、脱ぐと訳しているのです。
なぜ主イエスは上着を脱がれたのか。それは、弟子たちの足を洗うためです。当時、お客人の足を洗うのは、奴隷の仕事で、しかも身分の低い奴隷のすることでした。主人がお客人の足を洗うことは決してありませんでした。まして弟子の足を教えている先生が洗うことは全くありえないことで、してもいけないし、それを受けてもいけないことでした。衝撃的なことが記されている。
主イエスが大切な命をそこに置かれるようにして、上着を脱いで弟子たちの足を洗われたとき、そこには、12弟子たちがいました。裏切りの思いをすでに抱いていたイスカリオテのユダもいたのです。主イエスはユダも含めてすべての弟子の足を洗われました。それは私どもも、主イエスに倣って「互いに足を洗い合」うようにして、互いに仕えて神の愛を生きるためです。
主イエスは御自身の愛、神の愛と繋がって生きるように養ってくださる。いのちの門である主イエスが、十字架の上に命を献げてくださった。「わたしを通って入る者は救われる」と約束された神の愛を信じて生きていくことができる。主イエスに倣って「互いに足を洗い合」うようにして、互いに仕えて神の愛を生きることを祈り求めていきましょう。

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