日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。当面、ライブ配信と録画の掲載を継続いたします。それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。
礼拝式次第 2020年9月27日(日)10時30分
聖霊降臨節第18主日礼拝
司式 牧師 願念 望
奏楽 三宅 さやか
前 奏
招 詞 詩編1編 1-3節
讃美歌 12-1節 〝とうときわが神よ〟
交読詩編 詩編103編 14-22節
祈 祷
讃美歌 149-1節 〝わがたまたたよ〟
聖 書 エフェソの信徒への手紙 3章14-21節(新約355頁)
説 教 『愛の宿る場所』 伝道師 佐藤 倫子
讃美歌 476-1節 〝あめなるよろこび〟
献 金
主の祈り
派遣の賛美 90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福 牧 師
後 奏
説教 2020年9月27日(日)「愛の宿る場所」
エフェソの信徒への手紙 3章14-21節 伝道師 佐藤 倫子
■共に生きる福音
もし私たちが神に祈るとすれば、何を祈るでしょうか。体の健康、生活が維持できること、対人関係の事などをまず祈ります。パウロの言葉を借りれば、これは私の「外なる人」について祈ることになります。ところが、パウロは何よりも「内なる人」が強くされることを祈っています。生きる基盤がしっかりとすることによって自ずから「外なる人」も強くなると言わんばかりです。パウロの願い、それは異邦人への福音の伝道です。福音は異なる国々、異なる人間、宗教、価値観、それらの違いを乗り越え、すべての人を受け入れます。イエスによって生まれるその共存の論理が、ここに溢れています。「共に生きる」ために歩んでいこう。その祈りで溢れています。人間にはできないことなど何一つないかとも思えるような現代。その中にあって、なお相手を認め合えずに起こる差別意識や偏見、相違の故の排除の思想、それらを克服する道が見つからず苦悶する今、この「共に生きる」福音に接する意味は大きいのではないでしょうか。
■内なる人が強められる
では、どのようにすれば、「内なる人」は強まるのでしょうか。
「信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:17)
キリストが心の内に住むことによって、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」生活を促すのです。キリストが心に住み、強く結びつけられているとき、愛もそこにあります。根を大地に深く下ろしている木が倒れず、堅固な土台を持つ家が崩壊しないように、愛はキリストのもとに保ち、キリストの恵みと救いのもとに私たちをおきます。愛からのみ、神の恵みを受けとることができます。愛が私たちの中に力強く、純粋に存在し、私たちの思考と行動とを引き起こすとすれば、私たちもまた倒れることはないのです。
■愛
この愛は、私たちが知っている愛と同じものではありません。神の愛、キリストの愛は人間の知っている愛の範疇を遥かに超えています。傷つけ合うのではなくて、すべてを包み込む愛。それは信仰の歩みの中から受けとることができる愛です。イエスを知り、神と共に歩む中でその愛を知り、愛に生きることができるようになるのです。愛に生きる生活こそ、キリスト者の生き方であること、そして、そのように生きてほしいとパウロは願い、祈っています。一人一人がその場にあって生きることを望んでいます。深く、そして相手を生かす祈りです。
■愛の宿る場所
現代の私たちの祈りは、果たして教会に集う人一人一人に、またこの世界に住む一人一人に向き合った祈りとなっているでしょうか。真剣にその相手のことを見つめているでしょうか。パウロがこのように祈ることができたのは、神の福音に確かな実感があったからです。神の恵みを心から感じ、その恵みを広く隣人へ告げ知らせる、その喜びが、彼を支え、厳しい現実へと立ち向かわせたのです。今あらためて、この祈りが牢獄につながれたパウロによって祈られたことを思い起こします。自らは最も厳しく、辛い状況の中にありながらもなお、主イエスに導かれ、神に従う一人一人が、それぞれの場所で、神の愛に立ち、共に生きる社会を作り出すことを願っています。それぞれの歩みの中で、神の愛が広がっていくことを心から喜んでいるのです。神の恵みを知らずして、その恵みが満ち溢れるように祈ることはできません。私たちの内なる人が強められ、愛を宿す場所になった時、神の恵みがその内側に満ち溢れる人間として生きることができるのです。一人一人が生きている状況は異なります。それぞれの人生の中で、神を受け入れ、神の輝きを放つのです。当然、その輝きは一人一人異なっているはずです。一人一人の信仰がもつ命のきらめきがそこにあります。私たちもまた、誰かに祈られてここに生きています。誰かの宿す愛に包まれ、神の愛の中に生きているのです。奪い合い、傷つけ合う"人間的な"愛ではなく、与え合い、包み込む"神の"愛にしっかりと立つ。その時、私たちは神の輝きを身にまとい、自分自身もまた愛を宿す者として愛を宣べ伝える人となっているでしょう。様々な困難の中にあってもなお、愛に包まれ、愛を宿す者として、全ての者のために祈り、全ての者と共に歩む世界を、共に作って参りましょう。