2020年5月17日礼拝式次第と説教「祈りが通じる道がある」

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年5月17日(日)10時30分
復活節第 6主日
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞     詩編124編8節
讃美歌     56-1節 〝主よ、いのちのパンをさき〟
交読詩編   詩編 46 編2-4節
祈 祷
讃美歌    120-1節 〝主はわがかいぬし〟
聖 書     ヨハネによる福音書16章25-33節(新約201頁)
説 教     『祈りが通じる道がある』  牧師 願念 望
讃美歌     457-1節 〝神はわが力〟
献 金
主の祈り
報告
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年5月17(日)
「祈りが通じる道がある」                  国分寺教会 牧師 願念 望
聖書箇所 ヨハネによる福音書16:25-33

最後の晩餐、という言葉をお聞きになったことがあるかもしれません。主イエス・キリストが、十字架に引き渡されていく直前、最後の夕食、晩餐を弟子たちと共にされました。その最後の晩餐の席で、主イエスは弟子たちに大切な話をされた。別れの説教、告別説教です。どうしても話しておくべきことを語りかけられた。弟子たちのことを深く愛して話されました。弟子たちのことだけを思ってのことではない、後の時代の者たちのことも心にかけて話された。事実、ヨハネ福音書は、自分たちと後に続く時代の者たちへの主イエスの説教と信じて記しました。後に続く時代の者たちには私どもも、もちろん含まれています。

先ほど、その主イエスの告別説教の一部を読みましたが、一部と言っても最後の部分になります。説教の結びの部分を、私どもへの語りかけとしてもう一度聞きます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33)弟子たちは聞きながら、主イエスの言葉がどれほど分かっただろうかと思います。おそらくは、あとあと心に刻んでいったでしょう。「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主イエスが語られたけれども、十字架に引き渡されたとき、勇気を失い、弟子たちは散らされてしまいました。「世に勝っている」ならどうして、十字架に殺されてしまったのかと、正直に思ったのではないか。あるいは、主イエスの言葉を思い返しながら疑問を抱く余裕もなく、自分たちの殻に閉じこもるようにして、この先どうなるのかと不安に支配されていたかもしれません。先が見通せないことは本当に、つらいことです。主イエスは、すべてをご存じです。私どももまた、先が見通せない厳しい状況の中で、祈りつつ過ごしているその思いを、主イエスは知っておられるのです。
弟子たちは、主イエスが復活されたとき、はじめは信じることができなかったのです。しかしそんな弟子たちに主イエスが出会ってくださり、信仰が与えられて信じるようになりました。信仰は主なる神から与えられるからです。弟子たちは主イエスが復活されたとき、「あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という神の言葉が、分かっていった。「わたしは既に世に勝っている。」神の愛そのものである主イエスを、だれも、死でさえも無くして滅ぼすことはできないのです。主イエスが復活されて滅びないように、神の愛もまた滅びることは無いのです。罪も悪も、やがて滅びるときが来ると聖書は告げています。しかし、主なる神はとこしえの神であって、神の愛は滅びないのです。
弟子たちは、信仰生活の中で主の言葉を経験していったはずです。「あなたがたは世では苦難がある。」神の愛に生きてそれを貫こうとすれば、苦難の連続でした。力に対して武器を取って力で対抗するような戦いに屈しないことは、苦難に生きることでした。殉教の死を献げることもあった。迫害の厳しさのなかで、地下にあるお墓の棺を囲むようにして礼拝を献げることもめずらしくなかったと伝えられています。どうして、勇気をもって生き抜くことができたのか。それは、神の愛に仕える喜びがあったからです。敵をも愛する愛を、主イエスが生きて示してくださった、その神の愛に生きることは喜びです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と主イエスが祈ってくださった、敵をも愛する神の愛に生きることは、神の平和をもたらしていった。その喜びが弟子たちを、ヨハネの教会を支えていきました。

どうして、弟子たちは、ヨハネの教会をはじめとする初代教会は、先を見通せない苦難の中を喜びをもって生き抜くことができたのか。それは、主の名によって祈ることができたからです。祈ることは空しくなく、祈りの道が主なる神に通じている喜びをもって祈ることができるのです。
月に一度、近所にある保育園に行って、主イエスのお話をします。今は行くことができませんが、お話しの最後には、お祈りをして「このお祈りをイエス様のお名前によってお祈りします。」と言いますと、子どもたちと一緒に「アーメン」と結びます。「アーメン」というのは、聖書にある「アーメン」という言葉をそのまま受け継いでいますが、真実という意味で、そのとおり心から祈りました、ということです。
主イエスは、弟子たちに言われました。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。」(26)主イエスの名によって祈る、その日が来ることを、主イエスは深い喜びをもって語りかけられました。ご自身の命が献げられることによって、主イエスの救いを信じる者が、主イエスの名によって祈る日が来ることを見通していかれた。すでに私どもは、その主の日に生きているのです。
キリストの名によって祈るというのは、主イエスに私どもの祈りを取り次いでもらうということだと思われるかもしれません。しかし主イエスは「あなたがたのために父に願ってあげる」ことではないと言われます。キリストの名によって祈るというのは、主イエスに私どもの祈りを取り次いでもらうということではないのです。
主イエスの名によって祈ることは、素朴に主イエスを信じて、主イエスと共に祈ることです。それは、主イエスがたえず神の御心を祈られたように、私どもも主イエスと共に、かならず主の御心は実現することを信じて祈っていくのです。しかも、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(15:15)と言われる主イエスが、私どもが神の友として祈るようにと招いてくださっている。
私どもが神の友として祈る。とてももったいないことです。主なる神が、その友を信頼するように私どもを愛して受け入れ、祈りを聞いてくださるのです。信じがたいほどの神の愛を信じて祈ることが、神の平和をもたらし広げていく。主は、友の祈りによって働くことをよしとされました。どうか主イエスと共に、主イエスに助けられて祈りましょう。

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