2020年5月3日(日)礼拝式次第と説教 「キリストの愛に生きる」

2020年5月3日

主の平安とお支えをお祈りしています。

日曜日の10時半からインスタグラムでのライブ配信(生中継)」をしています。
日曜日の午後からYouTube(ユーチューブ)で礼拝の録画映像が見られます。
それぞれ、見る方法が違いますので、お知らせ、礼拝欄の「礼拝の映像を見る方法」を参考にしてご覧ください。

礼拝式次第 2020年5月3日(日)10時30分
献堂 69 年記念礼拝 復活節第 4主日
司式   伝道師  佐藤 倫子
奏楽  河野美和子

前 奏
招 詞     詩編121編1-2節
讃美歌     12-1節 〝とうときわが神よ〟
交読詩編   詩編46編1-4節
祈 祷
讃美歌    157-1節 〝いざ語れ、主の民よ〟
聖 書     ヨハネによる福音書21章15-19節(新約211頁)
説 教     『キリストの愛に生きる』 牧師 願念 望
讃美歌     483-1節 〝わが主イエスよ、ひたすら〟
献 金
主の祈り
報告
派遣の賛美  90-1節 〝主よ、来たり、祝したまえ〟
祝 福  牧 師
後 奏

説教 2020 年5月3(日)献堂69年記念礼拝
「キリストの愛に生きる」       国分寺教会 牧師 願念 望
聖書箇所 ヨハネによる福音書21:15-19

この朝は、献堂69年の記念礼拝です。この礼拝堂が建てられて神様に献げた献堂から、69年にわたって主なる神が私どもを支えてくださったことを感謝します。主なる神はなおも支えてくださっています。いかなるときにも、主なる神が礼拝からはじまる教会の歩みを導き、私どもをさらに深く慰めをもって支えてくださることを信じて、主の御言葉に思いを深めていきたい。

先週、この礼拝堂が建てられていた頃、約70年前に結婚された、ある教会員の葬儀を執り行いました。その女性は89歳で天に召されましたが、この20年ほどは入院・療養生活です。とくにこの10年ほどは病室で寝たきりで直接言葉を交わすことはできませんでした。でも私はうかがう度に、慰められ励まされてきました。
いつも穏やかに迎えてくださいました。最後にお目にかかったときも、耳元で「Tさん、牧師の願念です。」と言いますと、いつものように目を開けてこちらを見てくださった。そばにおられたご家族の方もそう思われたようですが、口を動かして語りかけてくださっていると感じました。神様に共に生かされている者として、感謝の言葉を語ってくださったと思います。望まれないものを身に負われた中で、神の慰めを持ち運んで教会の仲間を支えてくださいました。神様の栄光が現されていました。主イエスから、望まないものを身に負うことで神の栄光を現すと言われたペトロと重なります。

今日の箇所で、ペトロは復活されたキリストに出会いました。そして、主イエスはペトロにこう言われました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロの望まない出来事によって「神の栄光を現すようになる」と御言葉を受けたのです。

ペトロが主イエスの御言葉によって経験したことは、明らかに殉教の死だと言われます。「両手を伸ばして」というのは十字架刑の様子を伝えた言葉です。伝説では、ペテロは主イエスと同じでは申し訳ないので、逆さ十字架によって殉教したと伝えられています。
30年ほど前に、私ごとですが、牧師になる学校、神学校に行っていた頃、学生たちで劇を演じることになりました。当日は、神学校の教師や宣教師とその家族も見に来てくださいました。なぜか私はペトロの役で、老人になっていたペトロのメイクを演劇部出身の先輩がしてくれました。ペトロは迫害のただ中で、周りの弟子がローマから避難させようと旅していたのです。旅の途中で、神の栄光に照らし出されたペトロは、主イエスにお会いします。ペトロとは反対方向のローマに向かっておられた。「主よ、どちらへ」と問うと、「もう一度十字架に身を献げる」という主の言葉を聞いて、ペトロはローマに引き返すことを決心するのです。周りの弟子たちの制止を振り払うようにして、「ローマへ」という言葉で幕が下りました。

ペトロは64年頃ローマで殉教したと伝えられています。主は当時の教会の者たちに対してもそうですが、私どもが殉教することを望んでおられるわけではありません。「行きたくないところ」とは、主もまた行かせたくないところです。しかし、主もまた望まれないことを私どもが経験することの中に、主は栄光を現すことができる、そのことを信じて主にゆだねていくようにと、主は語りかけておられるのです。
主イエスはペトロに言われました。「わたしに従いなさい。」
ペトロに語りかけられた御言葉を、教会は私どもへの主の御言葉と信じてきました。主イエスは愛をもって語りかけてくださいます。「わたしに従いなさい。」
「わたしに従いなさい」と言われたときに、私どもは従いぬくことを自信をもって見通せるでしょうか。
ペトロは、生涯、主に従いぬきました。しかしその力の源は、ペトロにはなく、キリストにあることをペトロはよく知っていたはずです。

主イエス・キリストは、ペトロを愛しぬかれました。
主イエス・キリストが十字架に引き渡される直前、ペトロは三度も主を知らないと言ってしまいました。主はペトロを愛して、回復の道を備えていかれます。三回否定したペトロに、三回重ねて「わたしを愛しているか」と問うて、主の愛にとらえてくださった。主イエスから問われたペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。回りくどい言い方のようですが、ペトロが主を愛する愛の源は、主イエスにあるということです。主に従うその服従の確かさ、力の源は主にあるのです。

「わたしに従いなさい」と言われて、私どもは、主を信じて従う確かさを、自分の中に見いだそうとして落ち込む必要はないのです。「わたしに従いなさい」と語りかけてくださる主ご自身が、その御言葉を実現させてくださる。だから単なる命令ではなく、主の愛の御言葉です。

「わたしに従いなさい」と語りかけてくださるキリストの愛に生きて、主に従うことができるのです。いまは、礼拝に集まることができないで、明らかに望まない状況です。主もまた望まれないこのただ中で、主は栄光を現してくださっています。キリストの十字架に現され、ペトロと教会が経験したキリストの愛が、すでに私どもを生かしています。いま不自由な中にも信仰に踏みとどまって、共に祈りにおぼえ、主が愛しておられるすべての方のために祈ることは、主に従うこと、主の栄光が現されることです。キリストの愛に生きましょう。主は私どもと共に生きておられます。祈りつつ、キリストの愛に生きましょう。

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